核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

戦争を止めるための大前提

 「戦争を止めるための第一歩」としたいところですが、それは前に書いてしまったのでした。

 

 戦争の止め方、原発の止め方、その第一歩 - 核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ (hatenablog.com)

 

 なので今回は、戦争を止めるための大前提、いわば初歩ということにします。

 一つの宗教やイデオロギーマルクス主義共産主義含む)で、世界を統一すれば平和になるといった考えから、きっぱりと縁を切ること。

 世界が一つの国家、一つの宗教に統一されれば戦争はなくなると思う人もいるかも知れませんが、違います。まず、統一しようとする過程で、必然的に戦争が起きてしまうのです。「世界統一平和家庭連合」なんて宗教は、名前からして矛盾しています。私には断じて受けいれられません。

 なので、前回のくり返しになりますが、異国人、異教徒の存在、そして国境線の存在は認めなければなりません。その上で、そうした異国人、異教徒と非暴力的に平和共存する術を探ること。それが世界平和への道と考えます。

 「世界統一平和なんとかとも平和共存するのか」と問われるかも知れません。そこが悩みどころで、こちらが境界線を認めた上で平和共存しようとしても、向こうが暴力的にこちらを「統一」しようとしてきたらどうするのか。あくまでも非暴力的に、なおかつ毅然と拒絶するという原則を、再確認しておきます。

 それ以上に困りものなのがマルクス主義で、そもそも教祖のマルクスからして暴力礼賛者であり、全世界をマルクス色に統一しよう、逆らう者は皆資本家の手先だと言いつのる、どうしようもない人間でした。そういうどうしようもない思想やその信奉者相手でも、私は先の原則を貫かなければなりません。断固として拒絶する、しかしこちらから暴力に訴えることはしないと。私はマルクス主義をまったく尊重しませんが、マルクス主義者といえども人間である以上は、人間への最低限の尊重を払うつもりでいます。

 以上を要約すると、「どくさいスイッチ」を押さないこと。マルクスのような人間に対しても。

 不気味に見える異教徒、気心の知れないように映る異国人と、平和共存する道を探ること。

 それが世界平和のための大前提です。

 

 

 

エイリアンズ間の平和。

 ここでいうエイリアンズとは、さしあたって「異星人たち」ではなく、「異国人たち」「異教徒たち」を意図しています。私が目指している世界平和とは、そういう方向です。

 断じて、世界統一平和なんとかというような、宗教家がめざすような指向の平和ではありません。

 どう違うのかというと。一人の教祖さまや元首さまのもと、全人類を一つの教義のもとに統一する、といった方向の平和は、私に言わせれば不可能なのみならず、危険でさえあると思うのです。そういう種類の平和を目指す団体や国家は、異教徒や異国人に対して極めて残酷になるものです。

 私が想定している平和はそうではなく、異教徒や異国人の存在を認め受けいれるのは当然として、彼ら彼女らから見れば私も異教徒(いや、私は無神論者ですが)、異国人(私は日本国民です)であることを受けいれる、そうした垣根ごし、境界線ごしの平和です。ボーダーレスやバリアフリーではなく、ボーダーやバリアの存在を受け止めた上での平和。

 「世界は一家、人類は皆兄弟」(そういう標語のCMが昔あったのです)というような理想や、国民国家否定論に立つ方から見れば、私の平和観は志が低いと思われるかも知れません。しかし、それは私なりに人類の歴史を顧み、人間集団間の戦争をなくす方法について熟慮した結果です。

 今、私は小川未明の童話「野ばら」を読み、戦争と文学についての論文を書いているわけですが、どうもこの童話も、ボーダーレスな平和ではなく、ボーダーごしの平和について語っているような気がします(今のところですが)。いつか論文を書く予定の、石川啄木の小説「我等の一団と彼」もまた。

 小川未明石川啄木が言ってることだから正しいってもんでもないでしょうが、今の私はエイリアンズ間の平和、人間集団の境界線ごしの平和に強い関心を抱いています。

最後の一ページだけ先に見たくなる

 分厚い本を読んでて根気が続かなくなると出る、私の悪癖の一つです。

 もちろん推理小説とか、星新一ショートショートのような、最後の一ページを先に読むと台無しになる作品ではがまんします。しかし、大長編文芸作品のたぐいになるとつい。

 きっかけは覚えています。子供向け世界名作全集の『ドン・キホーテ』。これは読み飽きたわけではなく、最初のページを読む前に、最後の一ページを開いてしまったのです。ドン・キホーテの最期の場面。以下、うろおぼえで引用。

 

 「ああ、今わしは騎士ドン・キホーテではなくて、もとのアロンソ・キハーダにもどったのだ。騎士物語のあのくだらないほら話は、もういやだ」

 

 今でいうネタバレをしてしまったわけですが、強烈に印象に残りました。本編をじっくり読み返したのは、そのだいぶ後だったと思います。最初に最後のページを読んだから面白くなくなるといったことはなく、むしろ『ドン・キホーテ』自体を一種の騎士物語のように、面白く読んだことを覚えています。

 この、最後になって物語の世界から現実に引き戻される感覚、私はわりと好きです。

 前にも書きましたが、『三国志演義』の結末近くで、蜀の国を滅ぼした鐘会という将軍が、独立しようと邪心を抱いて、

 「うまくいけば天下を狙えようし、し損なっても劉備ぐらいまではできるのだ」

 と豪語する場面は、なんか劉備ももう歴史上の人なんだな、と気づかされて、寂しい感動を味わいました。『水滸伝』の魯智深が円寂する場面も。あ、この二作品は平凡社の大人向け全集で、きちんと最後まで読みました。 

 最後の一ページだけ先に読むなんて、読書のあり方としては邪道もいいところですが、読者論とか読書論について何かを考えている方の参考になれば幸いです。

 

東映まんがまつりを思い出す

 正確には、私は東映まんがまつりを映画館で見た経験はないので、

 

 「スパロボをやっていると、東映まんがまつりのポスターを見つつ飲んだ、オレンジジュースの味と香りを思い出す」

 

 あたりが妥当なのですが、個人的すぎて人には伝わらないかも知れません。あの頃の私はオレンジジュースが好きでした。もう飲まなくなってずいぶんになります。

 あるいは、駄菓子屋さんの奥にちらっと見えた、ほこりをかぶったプラモデルの箱のにおい。そういった古い思い出をよみがえらせてくれるゲームです。『スーパーロボット大戦』シリーズというのは。

 懐古趣味におぼれてばかりでは先に進めない、とはわかっているのですが。

「ひっつけよ!」「ひっつく?くっつくの?」

 アニメ『ブレンパワード』中の印象的なセリフです。同アニメを視聴していなかった私は、『第二次スーパーロボット大戦α』というゲームで知りました。

 つねづね思うのですが、この『スーパーロボット大戦』シリーズは、異なるロボットアニメ作品どうしのクロスオーバー、つまりひっつけ方が秀逸です。

 基本的には機動戦士ガンダム宇宙世紀が軸なのですが、「歌はいいね」のカヲルくんが『超時空要塞マクロス』のプロトカルチャーだったり、『勇者王ガオガイガー』と『鋼鉄ジーグ』の主人公が、サイボーグどうしで意気投合したり。『闘将ダイモス』の空手技を見て元カラテ部のカミーユが感心したり。作品の枠を越えて人間関係が広がっています。

 もちろん、戦争と平和についても考えさせてくれます。力で悪と戦う主人公たちとは別に、あくまでも話し合いによる完全平和主義を貫く、『新機動戦記ガンダムW』のリリーナのような人物もいたりして。