安愚楽鍋論の参考になるかは別として、貴重な幕末の牛鍋資料です。
原著は1899(明治32)年刊。引用は慶応通信、1957(昭和32)年刊によります。
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銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買ってきて塾中でひとり飲む。それから少し都合のよいときには一朱か二朱持ってちょいと料理茶屋に行く。これは最上のおごりで容易にできかねるから、まずたびたび行くのは鶏肉屋(とりや)、それよりモット便利なのは牛肉屋だ。そのとき大阪中で牛鍋(うしなべ)を食わせる店はただ二軒ある。一軒は難波橋(なにわばし)の南詰(みなみづめ)、一軒は新町の郭(くるわ)のそばにあって、最下等の店だから、およそ人間らしい人で出入りする者は決してない。ほりものだらけの町のごろつきと緒方の書生ばかりが得意の定客(じょうきゃく)だ。どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やらそんなことには頓着(とんじゃく)なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と、十分の飲食であったが、牛はずいぶん堅くて臭かった。
(54ページ)
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特に西洋文明のシンボルとかいうわけではなく、牛鍋の方が安いから食べてただけなようです。
なお当時の物価については74ページにくわしく書かれています。
白米一石 三分二朱
酒一升 百六十四文から二百文
写本代 百六十四文(=酒一升)
一日の生活費 百文以下
「一分二朱はそのときの相場でおよそ二貫四百文」だそうです。
牛鍋一人前の百五十文は、平均的な塾生の一日分生活費よりも少し高めなのですが、福沢の場合、牛鍋よりもセットで出る酒がめあてだったのではないでしょうか。子供の頃からの酒好きなのです。