核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

反戦文学は何に訴えるべきか

 ここ三年、年に一本のペースで反戦的な作品論を発表してきまして、私にしては上出来ではあるのですが、このペースではどうも追いつけないという気もしています。軍備拡張による「積極的平和主義」と称するものに向かいつつある風潮にです。
 で、書く予定だった芥川「将軍」論と『戦争に対する戦争』論は一本にまとめることにしまして(分量的にもその方がちょうどいいようです)、次は作品論ではなく、大きなテーマに挑みたいと思います。
 反戦文学の方法論と言いますか、反戦文学は何に訴えるべきか。
 流れの一つとしては、戦争の悲惨さを語り、人間の持つ感受性や道徳性に訴えかけるというタイプがあります。
 いわば正統派であり、第二次大戦後の反戦文学の多くはその型であり、私自身もそれによって反戦への志を持ったように記憶しています。
 ですが、そうした高尚な反戦論が通じない相手もいるのです。ヒトラースターリンに「戦争の悲惨さ」論が通じるでしょうか?毛沢東に至っては、核戦争で総人口の半分が失われても、もう半分が残ればいいとの発言をしています(ショート『毛沢東 ある人生 下』一七三ページ)。
 そういう人々に対しても、暴力で抗するわけにはいかないのが絶対平和主義者のつらいところです。ですが、独裁者を倒すための戦争を認めてしまったら(第二次大戦期のラッセルはまさにそうだったのですが)、もはや平和主義者を名乗る資格はありません。松元雅和氏と意見を異にするところですが、ラッセルは正戦論者ではあっても平和主義者とは呼べないと考えます。
 で、反戦文学のもう一つのタイプ。愛とか共苦よりも、もう少しだけ人間性の俗な部分に訴えかける文学というのが必要になるわけです。ヒロイズム・ユーモア・帰結主義(損得勘定)といったような。
 私の研究成果によると、そうしたタイプは第二次大戦後よりもむしろ前に多いようです。崇高な理念に基づく憲法九条が存在しなかった分、崇高でない部分の人間性に訴えかける必要があったのでしょう。個人的にはこの第二の、非正統派のタイプの反戦文学に、より親しみを覚えます。
 戦前型のもう一つの特徴としては、戦争の被害よりも(被害を無視しているわけではありません)、加害の面に着目し、そのメカニズムの分析に注力している点です。前にも書いたように、ひき逃げの被害者をいくら追悼してもひき逃げはなくならず、加害者を逮捕してはじめて止むのです。
 といったような事例を総合して、「戦前の反戦文学」といったような論、できれば著書を出したいものと思っています。「戦前の」とは狭義には第二次大戦前のという意味ですが、広義には「戦争が始まる前の」という意味を込めています。