『資本論を読む 中』の注(1)より。アルチュセール手放しべたぼめです。
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きわめて深い理由から、職業哲学者であることなしに、『資本論』を哲学者として読みかつ理解することができたのは、事実上はしばしば、政治的闘士たちと政治指導者たちであった。レーニンはその最も並外れた例である。『資本論』についての彼の哲学的理解力は、彼の経済的政治的分析に比類のない深さ、厳密さ、鋭さを与える。
(以下九行、レーニンの偉大さ、教養、知性を讃える言葉が延々と続くが省略)
レーニンーそれは政治になった比類のない理論的で哲学的な教養である。
アルチュセール編『資本論を読む 中』 アルチュセール「『資本論』の対象」 (ちくま学芸文庫 一九九七 二七七ページ 傍点は省略した)
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そのレーニンが生み出したのが数百万の犠牲者と、後継者スターリンなわけですが。
さんざん「空白を読む」だの「徴候的読み」だのとごたくを並べたあげくレーニンです。
オーウェルの『1984年』に、ダックスピークという造語が出てきます。「味方」をアヒルのようにガアガアと無内容な言葉でほめたたえ、「敵」をこれまた無内容な言葉の羅列で罵倒するというものです。アルチュセールのレーニン評はまさにそれです。