そろそろ、怒ってもいい気がしてきました。アルチュセールのマルクス観に対して。
(ここで打ち込む気力と時間がなくなったので、続きは夕方にでも)
気力が回復したので引用します。ちくま学芸文庫版『資本論を読む 上』一一三ページより。傍点省略。
※
ひとたび諸科学が本当に構成され発展していくと、それが生産する知識を「真実」であると、すなわち知識であると宣言するためには、外部の実践の検証をまったく要しない。世界中のどの数学者も、数学のいくつかの分野が物理学に応用されているとはいえ、物理学が数学の定理を検証してそれを証明されたと宣言してくれるのを期待していない。
※
……この時点で怪しい理屈ですが、次のページに比べればかわいいものです。
※
われわれが最も強い関心をもつ科学すなわち史的唯物論についても同じことを言わなくてはならない。マルクスの理論が「真実で」あったからこそ、それは上首尾に応用されることができたのであって、それが首尾よく応用されたから真実であるのではない。(略)まさにマルクスの理論的実践こそが、マルクスによって生産された知識の「真理」基準なのである。
※
一般にそれは循環論法といいまして、哲学者が一番やってはいけない論法です。
古来から数千年の歴史を積み重ねてきた数学という学問と、マルクス一人が勝手に考えた史的唯物論を一緒にしていいわけがありません。それを言い出したらどんな怪しい新興宗教でも、「教祖さまの正しさは教祖さま自身の基準に照らせば正しい」ことになります。もうめちゃくちゃです。科学は科学でもこ(自粛)のたぐいです。
だいたいマルクスの何が「上首尾に応用された」んでしょうか。マルクスの名を掲げた国で貧富の格差が解決されたためしはありません。
訳者の今村仁司という方はかつて私も愛読していたのですが、この箇所を訳していて変に思わなかったのでしょうか。