核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ハイデッガーのいう「自由」

 図書館に行けない日なので、ウィキペディアからの引用でお送りします。

 ドイツの大哲学者とされるハイデッガーが、「自由」という語をどう使っていたか。

 

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 1933年11月、(略)フライブルク大学総長ハイデッガーは「ドイツの学者の政治集会」に参加し、「ドイツ民族は、総統から賛成投票を呼びかけられている。しかし総統は民族に懇願しているのではない。総統はむしろ民族にこの上なく自由な決断のもっとも直接的な可能性を与えてくれている。民族の全体が自らの現存在を望んでいるのか、それともこれを望んでいないのかの決断をである。この民族は、明日、自らの未来そのもの、それ以外の何ものでもないものを選ぶのである」

 「マルティン・ハイデッガー」の項より

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 恐れ多くも総統は、諸君に「ハイル・ヒットラー!」と叫ぶ自由をお与えくだっている、なんと有難いことではないか……とハイデッガー歓喜したわけです。

 オーウェルの『1984年』に出てくるフレーズに「自由は屈従である」とありましたが、ハイデッガーのいう自由はまさに屈従にほかなりません。

 なんで唐突にチョビヒゲの話になったか。唐突でもありません。

 中野剛志氏が小林秀雄全集から読み取ったと称する自由(フリーダム)とは、まさに戦争や統制という事態への屈従以外への何物でもありません。

 なおハイデッガーは「1944年の戦争末期、軍務を免除された500人の学者と芸術家のなかにハイデッガーは入っておらず、大学総長は大学教官を不用、半ば不用、不可欠の3グループに分け、ハイデッガーは「不用」グループの筆頭にされ、夏にはライン川保塁工事を命じられた」とのこと。口先でのお追従しか能のない人間の末路なんてそんなものです。悪運強く戦後も生きながらえてはいますが。