前回までの話とは無関係です。前々回とはちょっと関係あり。
仮に私が日本文学の講座をやるとしたら、と妄想がふくらみまして。
「匿名投書」や「電話機」といった明治SFは確かに面白いのですが、なにせ文語体なので、初学者にはちょっととっつきにくいかなと思ったわけです。
では、口語体で、戦後文学にうとい私に教えられる対象はないかと考えて、「現代日本におけるクトゥルフ受容」はどうかなと。
以前紹介したラヴクラフト論文にもありましたが、ラヴさんの原作は、今日からみて差別的な要素が多すぎるのです。人間との「混血」深きものとか、「黒い人」ニャルラトテップとか、「盲目にして白痴の大帝」アザトースとか。今では違う意味で名状しがたいです。
で、そうした「異なる者」をたとえば「萌え」や「ギャグ」に置き換えたのが、ニャル子さんをはじめとする日本での受容なわけです。
そうした受容の功罪とか、日米以外の国ではどうなのかとかを議論したら、けっこう面白いんじゃないかと。