核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

戦争とは、「戦い」ではなく、「戦わせ」であること

 大事なことなので何回も書きます。戦争とは、安全な場所で利益を得る者が、利益を得られるわけでもない兵士や民間人を殺人や死においやる営為であり、それゆえに不正であると。反戦論者は戦争の悲惨さを訴えると同時に、戦争の不正を訴えねばならないと。

 利益を得る者とは、高級軍人や政治家に限りません。「日本男児ぞ嗚呼我は」と詠うことで、自己満足と名誉男性の座を得る女性文学者。「われの心は、猛き心ぞ」と詠い「うまいものだ」と自画自賛する徴兵忌避者。「その時が来たら一兵卒として銃をとる」と宣言しながらそうせず、終戦の日には酔っぱらっていた鎌倉文士。これら文学者(?)たちの自己宣伝と自己満足のために、何千何万という人々が死傷に追いやられたこと。それが私のいう「不正」です。

 天皇は自ら戦争に出ない、と詠った与謝野晶子は、その瞬間に関する限り、戦争の本質を突いていました。しかし彼女は大町桂月の非難に屈服してしまい、「ひらきぶみ」で自分が非戦論者でも天皇批判者でもないと弁明してしまいました。

 平民新聞に拠った非戦論者たちは、確かに戦争の本質が「戦わせ」であることを見抜いていました。しかし彼等の多くは社会主義者でもあったために、「戦わせ」の主体を「資本家」と見てしまい、結果的に批判力の分散を招いてしまったのは惜しまれます。

 ことに日露戦時下にマルクスの「共産党宣言」の訳文を掲載するなどは愚行の極みであり、結果的に非戦論運動の命取りになりました。マルクスと非戦論に何の関係があるというのでしょうか。

 今後起こりかねない戦争を阻止するには、戦争の主体をピンポイントで批判(罵詈雑言を浴びせるのではありません。相手に届く批判です)することが大切です。福地桜痴の『女浪人』は、当時の「戦わせ」の主体である明治天皇をピンポイントで批判した稀有な小説です。この作品では何度かボツを食らいましたが、懲りずに新たな作品論を書いているところです。