校歌、社歌、軍歌なら、それこそ北原白秋全集にいくらでもあるのに。
「われ」を詠う詩と、「われら」に歌わせる歌の違い、なのだと思います。
もっと言うと、孤独から生まれる文学と、連帯を強要する文学の違い。
北原白秋だって、切支丹でうすの魔法に思いを馳せていた憂愁の青年時には、
「われら われら われらの思ふ 邪宗門秘曲~」
なんて詩は絶対に書けなかったはずです。秘曲じゃないし。
伝記作家じゃないので正確な時期は特定できませんが、ある時期から白秋は、詠う「われ」から歌わせる「われら」に頽落しました。
ナチスが来れば「万歳ナチス」、日本が国際連盟を脱退すれば「脱退ぶし」、晩年白秋はまるで詩の自動販売機です。
学校、会社、軍隊といったものは、人から孤独や秘密を奪い、詩心なんてものを持たせないようにする組織です。晩年白秋のあの驚くべき量産ぶりは、創作力の旺盛さを示すものではなく、芸術家の良心を失ったこと、詩を作る側から詩を抑圧する側に回ったことの現れです。