明治四〇年前後、無理想無解決を主張する自然主義文学が流行した……というのは文学史の初歩ですが。
それ以前や以後の文学が有理想有解決かというと、心細いものがあります。
私が飛び石伝いのように明治大正昭和の反戦文学を行ったり来たりしているのも、そもそも有理想有解決といえる作品が乏しいからなのです。
現実暴露的に、戦争の悲惨さを描いた作品ならいくつかあります。漱石の「趣味の遺伝」、鴎外の「鼠坂」、花袋の「一兵卒」、昨日見つけた岩野泡鳴の「戦話」。しかし、それらの作品は世界平和という理想をもたず、戦争阻止という解決策を提出できていないために、私が探しているタイプの反戦小説ではありえないのです。悲惨だ悲惨だ、これが人生だ現実だと、詠嘆するだけの文学では現実を変えられないのです。
プロレタリア文学はどうかというと。それらはマルクス主義という間違った理想、暴力革命という間違った解決策を掲げているゆえに、これも私が求めているタイプではありません。さしずめ謬理想謬解決です。
無理想無解決の伝統は明治自然主義にとどまらず、その後の私小説、純文学とされる伝統に影を落とし続けています。これから文学に志そうという奇特な方がもしいらっしゃったら、どうか無理想無解決の伝統とは手を切ってほしいものです。