核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「安全保障」とは、誰の安全の保障か

 軍事力による集団安全保障こそ現実的な道であり、全世界に向けた絶対平和主義など空想にすぎない、といった見方を目にすることがあります。私はそうではなく、絶対平和主義こそ真の現実主義であると考えるわけです。以下、軍事力による集団安全保障、もしくは安倍晋三氏のいう「積極的平和主義」(以下、まとめて「安全保障」と呼びます)の非現実性について論じてみます。

 それらが想定する「安全」「平和」とは、誰の安全・平和か。

 「日本国民の安全・平和にきまってるじゃないか。自衛隊さんや在日米軍さんは、有事に備えてわれわれ日本国民を守ってくださっているのだ」といった答えが返ってくることでしょう。私は懐疑的です。太平洋戦争末期のサイパンや沖縄で、軍隊は国民を守ったでしょうか。有事になれば、軍隊を守るために国民が犠牲にされるのが戦争です。

 「災害時には自衛隊のみなさんは国民を守ってくれてるじゃないか」。確かに感謝すべきことですが、それは戦争時ではなく災害時だからです。

 「自分は東京都在住だし、税金もきっちり納めてる上級国民だし、サイパンや沖縄の人々のようには盾にされないさ」。どうでしょうか。私の母の一家も東京在住でしたが、皇居にだけは爆弾を落とさない差別爆撃、東京大空襲で家を焼かれ、犠牲者を出しました。長距離ミサイルの時代ともなればなおさら、国民にとって安全な場所などないのです。

 軍隊は国民を守るためではなく、政府を守るために存在する。それを私は歴史から学びました。安全保障の安全、積極的平和主義の平和とは、元首や政府の安全、平和です。そういう利己主義に、私は平和主義の語を汚してほしくありません。

 で、私は自らの思想を安全保障等と区別して、絶対平和主義と呼びます。その眼目は、自国(元首も政府も国民も含む)のみならず、仮想敵国、敵国の平和をも配慮する平和主義です。仮想敵国、敵国「との」平和と限定しなかった点にご注意ください。

 「仮想敵国や敵国は内紛でもめてるほうが、日本には都合がいいんじゃないか」といったマキャベリ的な見方は、私はとりません。長期的に見れば、仮想敵国や敵国が平和で民主的な国になり、仮想敵国や敵国でなくなることこそ真の平和への道です。