核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

柄谷行人『柄谷行人の現在 近代文学の終り』(インスクリプト 二〇〇五)

 かつては柄谷氏を尊敬していたこともあったんだけど(『探究3』のころは)、この本には賛同できませんでした。

 

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 写真が出現したとき、絵画は写真ができないこと、絵画にしかできないことをやろうとした。それと同様のことを、近代小説は映画が出てきたときにやったと思います。その点で、二十世紀のモダニズム小説は、映画に対してなされた小説の小説性という意味があると思います。

 (略)

 しかし、小説の相手は映画だけではない。映画そのものを追い詰めるものが出てきた。それがテレビであり、ビデオであり、さらに、コンピューターによる映像や音声のデジタル化です。こういう時代に、活版印刷の画期性によって与えられた活字文化あるいは小説の優位がなくなるのは、当然、といえば当然です。

 (五六~五七頁)

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 だから、「政治的な目的があるなら、小説を書くより、映画を作ったほうが早いでしょう。あるいはマンガのほうがいい」(五七頁)なんて結論に続くわけですが。

 映画は一人では作れないし、動画にしてもyoutubeなどの媒体が必要です。マンガもアシスタントが不可欠です。一人の個人が、巨大資本を向こうに回して闘えるのは、やはり文学というジャンルしかないのではないでしょうか。

 小説『女浪人』とその歌舞伎化を通して考えていたことですが、文学はスポンサーなしででき、それゆえに好き勝手がやれるということです(『アダプテーションの理論』では、あのブラッドベリも似たことを言っていました)。歌舞伎版では西園寺公望をはじめとする維新の元老たちやその遺族が「協賛」し、それゆえに原作の政治的主張が台無しになっていました。

 「製作費何十億!」とか、「豪華キャスト!」が、原作の文学性を損なう縛りになることもあるのです。

 小説の未来は明るい、とは言いません。原作としてメディアミックスしない限り、小説を書くだけではお金にならない状況は今後も続くでしょう。ですが、私が文学に期待しているのは、メディアミックスを拒絶する、儲けを度外視した、個人による別な個人のための小説です。

 

  2021・12・15追記

 「あのブラッドベリ」とある箇所は、アメリカのレイ・ブラッドベリだと思っていたのですが、イギリスのマルカム・ブラッドベリの発言だと判明しました。詳細は。

 

 ブラッドベリ違いでした。 - 核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ (hatenablog.com)