核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ミヒャエル・エンデ「自由の牢獄」(『エンデ全集13 自由の牢獄』岩波書店 一九九六)

 当ブログは以前、O・ヘンリーの「運命の道」や、アニメ『ヤッターマン』の最終回を通して、自由意志とは無知の別名ではないかという問題を扱いました。

 

 (ネタバレあり)

 

 その二作品は、自分の意志で運命を選択していると思っている人物が、枝分かれした道がどれも同じ結末に通じているのに気づかない、という悲劇ないし喜劇を扱ったものでした。

 それに近い問題を扱ったのが、『ジム・ボタンの機関車大旅行』、『モモ』、『はてしない物語』(映画『ネバーエンディングストーリー』の原作)で知られるエンデの短編「自由の牢獄」。

 アラビアン・ナイトっぽい世界観。イスラム教徒に生まれながらギリシア哲学の自由意志論に心酔していた主人公は、謎の存在(魔王イブリース?)によって、気がつくと百もの扉がある円形の大部屋にいます。元の世界に帰れる扉がどれなのか、どれが幸福に、どれが不幸に通じているのかは一切知らされないまま、謎の声はどれか一つの扉を「選べ」と言います。

 決断に迷う主人公に、声はここでは「アッラーはおまえを導かない」とも言います。外の世界ではアッラーがすべてを決定しているが、この部屋だけはアッラーの力の及ばない自由意志の部屋。主人公が迷っているうち、扉は一つずつ消えていきます。ついに扉が一つになっても、それを開ける理由を主人公は見いだせません。

 

 「われら人の子は、盲目という御慈悲が与えられぬかぎりは、とどまることも去ることもできない。盲目とはわれらを導く御手。わしは自由意志という妄想を永久に放棄しよう。自由意志とはおのれ自身を食らう蛇にほかならないからだ。完全な自由とは完全な不自由なのだ」(二三〇頁)

 

 『はてしない物語』の後半(映画化しなかった部分)以降のエンデ作品はたいがいそうなのですが、この作品も、同題の短編集に収録された作品群も重い後味を残します。

 悪く言えば、ボルヘスの影響を受けたというべきか。

 文学における自由意志について、もう少し考えていきたいと思います。