核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

文学の中の都市空間ーツリー構造とセミ・ラティス構造ー

 どうも小林秀雄北原白秋の名を出すと攻撃的になってしまうので、少し話題を変えます。

 現在の私は『戦争の止め方』論一筋なのですが、そこに至るまでには紆余曲折がありまして。反差別論や貨幣論にも興味を持ち、静岡大学時代にまでさかのぼれば、都市論なんてものにも興味がありました。前田愛『都市空間の中の文学』の影響で。

 当時の私は柄谷行人も愛読していましたが、その『内省と遡行』(講談社学術文庫 一九八八)の中に、アレグザンダーの「都市はツリーではない」という、ものすごく魅力的な論文が紹介されていました。以下、『内省と遡行』二七一~二七六頁あたりの議論を、私が理解できたなりに言い換えてみます。

 人工計画都市にみられるツリー構造というのは枝分かれ式のことで、たとえば町を北に歩くと交差点に出て、北には魚屋さん、東には肉屋さん、西には八百屋さんがあるとします(幼稚なたとえですみません)。あたりまえですが、それぞれ魚、肉、野菜しか売っていません。機能的であり、それゆえに、言っちゃあなんですけど退屈なのです。

 それに対して自然発生的に成長した都市は、迷路のようにからまり合ったセミ・ラティス構造をなしています。それゆえに(ここからは柄谷やアレグザンダーの議論というより、私の勝手な意見になりますが)、エキサイティングなのです。たまたま立ち寄った店にはまだ読んだことのない本があるかも知れず、次に通る街角では意外な出会いがあるかも知れない。お笑いになるかも知れませんが、田舎出の大学生だった私にとって、静岡という都市はまさにそういうわくわくさせてくれる場所でした。

 アレグザンダーによれば、東京も都市計画としてはツリー構造なんだそうですが、川端康成が『浅草紅団』で描いた震災復興直後の浅草は、セミ・ラティス構造なんじゃないかと思います。いかなるユニット(単位)も見かけどおりではなく、二重三重のからまり合いの一部をなしています。

 谷崎潤一郎小さな王国」も、退屈なツリー構造の地方都市(学校は先生が教える場所であり、お店は物を売買する場所)を、わくわくさせるセミ・ラティス構造の沼倉共和国(学校とお店を横断する「都市」)が浸食する物語として読めそうです。私はとうぶん「小さな王国」で論文は書きませんが、上記のような論文があったら読んでみたいです。

 セミ・ラティス構造は自然発生的に生まれ育ち、人間が意識的に設計したツリー構造を浸食する。この知見を「戦争の止め方」に応用できないものでしょうか。軍隊というのはまぎれもなく典型的なツリー構造なのですが、大西巨人神聖喜劇』や『プラトーン』の小説版には(映画は未見)、階級こそ低いものの、隠れた発言力を持つ人物が裏のネットワークめいたものを形成する挿話が出てきます。そういうセミ・ラティス構造を人工的に作って、軍隊の上層部の暴走を止める力にできれば・・・・・・。