核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

西川長夫「一九九五年八月の幻影、あるいは「国民」という怪物について」

 三十年近くも前の流行を、まじめに批判するのもどうかと思います。どうも「ネタにマジレス」感がいなめません。が、国民国家批判に立脚する論文はいまだに書かれ続けていることもあり、それらへの再批判はなされるべきでしょう。

 「国民」を繰り返しおそるべき怪物と呼び、地下鉄で毒ガスをまいたオウム真理教を、「彼らはわれわれよりもう少し徹底して国家の原理を体現した、優れた国民なのではないか」と(ブラックユーモアとしてなのでしょうが)言う西川自身が、日本国民であることで得られる彼自身の特権を、捨てようとしているとはまったく思えないからです。

 小学校入学の日の違和感と恐怖心を語り、「国民」という怪物にうなされる悪夢を語る西川の実感は、たぶん嘘ではないのでしょう。しかし、ならばなぜ西川は立命館大学教授(当時)という、生徒を管理する側の立場を捨てないのか(立命館は私立ですが、国民国家に認められた大学です。国民国家批判を展開できるのも、「国」とか「民」とかいう漢字を小学校で学習できた基盤があればこそでしょう)、国民国家が価値を保証する日本銀行券や硬貨を使用し続けるのか(この本だって「定価2,500円+税」です)。どうもネタ(おふざけ)で国民国家批判を展開しているのではないか、本気で国民国家を捨てる気などないのではないか、と思えてしまいます。

 私はマジレス派なので(つまり、国民国家の功罪両面をまじめに考えているので)、西川らの国民国家批判がどうもネタに見えて仕方がありません。

 私も、国民国家やそれに属する組織、学校や工場や病院の雰囲気が、好きだとは言いません。しかし公平に言って、学校や工場や病院がなかったら困るように、国民国家がなかったら困るのです。管理が嫌いだから、学校も工場も病院もなくしてしまおう、なんてのは小学生未満の理屈です。嫌なら改善案を考えるのがおとなの義務でしょう。

 もう一つ、日本国という特定の国民国家について言えば、諸外国への負い目が残っているという問題もあります。西川論の後半には、加藤典洋西谷修の対談の、

 

 「日本人おかしいじゃないか、おまえたちおかしいじゃないかと言われたときに、その「おまえたち」に合致する「われわれ」を自分は引き受けるのだ」

 

 との加藤発言を、日本回帰だと批判しています。加藤の立論にも問題はありますが(いずれ論じます)、ここでは加藤の言に理があると思います。「過去の戦争で侵略戦争を行った日本人」というのは外部からの名指しであって、当人が勝手にやめられるものではないのです。借金を借りた側が勝手に帳消しにできないように。

 西川は加藤・西谷の対談を国家への回収と批判する文脈で、

 

 「自分を日本共同体に同一化させずに、非国民をつらぬきながら責任を果たす(あるいは果たさない)狭いわずかな可能性も残されているのだから」

 

 と述べますが、実現しそうにない可能性です。

 日本国籍を捨て、日本銀行券や硬貨を使用せず、日本国憲法によって守られる自由と平和を拒否しない限りは・・・・・・それらをまじめに実行している国民国家批判論者を、私は知りません。