核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

結局、古い無政府主義に過ぎないのでは・・・・・・?

 幸徳秋水の思想の行き着いた先は、クロポトキンらの無政府主義だったわけですが。

 そういう幸徳秋水大杉栄を、「素晴らしい代案をもっていた」と讃える、西川長夫の国民国家論(実質的には国民国家否定論)なるものも、結局、無政府主義という古い思想を、目新しげに言い換えただけなのではないでしょうか。実際、西川はプルードンをも、よき代案の例として挙げています。私はプルードン幸徳秋水無政府主義を「古い」と思いますが、それは「由緒正しい」という意味の古さではなく、「とうに克服され否定された」という意味の古さです。

 西川のプルードン論は前回買ったのとは別の、今では入手困難な本に収録されているそうなので、国会図書館に行ったら読むリストには入れておきますが、正直、もういいかなという気はしています。今までに入手した二冊の西川著には、戦争を越えるような、人間性への洞察はいかなる意味でも見いだせませんでした。あるのは、国民国家さえなくせば平和が到来するといわんばかりの、不毛な思い込みだけです。

 近代の国民国家が形をとる前から、それはもう有史以前から、人間は戦争を続けてきたわけでして(何度も書きますが、近代西洋の国民国家らしきものが形成されたウェストファリア条約の前は三十年戦争なのです)、つまり国民国家は戦争の主体ではあっても、原因ではないわけです。

 「病気は心臓病か。心臓がなきゃいいんだ」という、筒井康隆のギャグがありますが(たしか出典は戯曲「三月ウサギ」でした)、国民国家否定論はあまりにもそれに似ています。そして反対者が人工心肺に相当する代案を要求しようとすると、「代案を出せる人はいんちきだと思います」と拒絶してしまうのですから、議論になりません。

 私は人類が国家なき自然状態に戻れば平和になるとは、どうしても思えないので(この点に関しては、フロイトの「文化の中の居心地悪さ」に同意します)、なんらかの集団を構成している人間たちの、集団内および集団間(ここ重要です。集団「間」)の平和を実現していきたいと考えています。国民国家論からは、結局学ぶべきものは何もなかったようです。