まず、西川長夫が国民国家を批判しながら、その代案を出さない理由を述べた箇所を再掲します。
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第二は、歴史の考え方にかかわってきますが、歴史にはつねに意外性があって、とりわけ現在のような五百年来の大転換期にあっては、未来の予測は困難である。ウォーラーステインはそのことを、プリゴジンの理論を借りてバイファーケーションという用語で説明しています。そういう時代にあっては、一歩一歩、視野を切り開いて、その度ごとに道を選らんで進むしかないのであって、もし一挙に代案を出せる人がいたら、多分それはいんちきだと思います。
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「ウォーラーステインはそのことを、プリゴジンの理論を借りてバイファーケーションという用語で説明しています」。耳慣れないカタカナが三つも出て来たので調べてみました。
まず「バイファーケーション」という用語。手持ちの英和辞典には載ってなかったので検索しました。「Weblio辞書 英和辞典・和英辞典」様より。
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bifurcationとは
意味・対訳
二またに分けること、分岐、分岐点
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「分岐点」ですか。ただ、ウォーラーステイン氏やプリゴジン氏が特別な意味を与えているかもしれないので、図書館にあったウォーラーステインの『ポスト・アメリカ』を読んでみました。
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プリゴジーヌ、スタンジェールの結語によって、勇気の糧としたい。
世界の進路を確実に予測することは不可能である。偶発的要因が排除しきれず、 しかもその進路は、ほかならぬアリストテレスが考えていたよりもはるかに断固としている。世界が分岐してゆく時には、小さな差異や取るに足りない変動が適当な状況下でいったん発生すれば、全システムに拡大してゆき、新しい機能様式を生み出すことになる。
丸山勝訳『ポスト・アメリカ』(藤原書店 一九九一 三六三~三六四頁)
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Prigogineらの引用部分は、”La nouvelle alliance"の二七一頁とのことですので、原書にあたりたい方はどうぞ。上記引用を読む限り、「未来の予測は困難である」という、あたり前のことしか言っていないと思われるので、私はプリゴジンだかプリゴジーヌにまでさかのぼる気はありません。
実際、未来予測は困難です。ウォーラーステインも同書の中で、マルクス主義が「より民主的でより平等な世界の構築を可能にする」(一六五頁 一九八九年秋との日付あり)なんて書いてます。
ソ連崩壊はその再来年です。実際に一九九〇年代に起きたのはポスト・アメリカではなく、明らかにポスト・ソ連、そしてポスト・マルクスだったわけですが、この論集にそれを予測した箇所は見当たりません。大はずれです。
結局、
「ウォーラーステインはそのことを、プリゴジンの理論を借りてバイファーケーションという用語で」
が意味していたのは、
「『再来年のソ連崩壊すら予測できなかった人』はそのことを、『未来予測は困難だとしか言っていない人』の理論を借りて、『分岐点』という用語で」
となるわけです。未来予測が困難なのはよ~くわかりました。
しかしそれがなぜ代案批判に結びつくのか。明日の天気が予測不能だからこそ、「折りたたみカサを持っていこう」という代案が必要になるわけです。じゃんけんで相手の手が予測不能だからこそ、(たとえば)「グーを出そう」という、とりあえずの代案が必要になるわけです。西川長夫はここでの代案批判に、成功しているとは思えません。
追記 ソビエト連邦の崩壊は一九九一年でした。訂正してお詫びします。