リオタールも読んでいないのに先走り気味ではありますが。
「大きな物語の終焉」といわれる現代。ポストモダン(近代以後)とか呼ばれていますが、どうも私に言わせれば、モダン(近代)と、言うほど大きな差はないようです。
どちらも戦争の時代に変わりはありません。
ほんとうの意味での新しい時代があるとしたら、それは「ポスト戦争」なのではないかと思います。「ポスト差別」や「ポスト暴力」ももちろんですが、とりあえずは「ポスト戦争」。
これは予測ではなく代案です。ほっておいても戦争のない未来が来ると予測しているわけではなく、誰かが戦争に代わる何らかの代案を提示しなければならないと言っているのです。もちろん、私もない知恵しぼって考えています。
今すぐポスト戦争という大きな物語を提示することは私にはできませんが、ポスト戦争を描いた、あるいは描こうとした小説(つまり小さな物語)やまんがやアニメやゲームは実在します。
一例を挙げれば、当ブログが何度も扱ってきた、福地桜痴の小説『女浪人』。
所属集団(幕府とか新選組とか尊王派とか)の存続のために、集団外の人間を殺すのが当然だった江戸幕末。そんな極限状況にあって、新選組に夫を殺された女主人公はそうした「敵は殺せ」の論理そのものを否定し、佐幕派でも尊王派でもない「この世に一人の女浪人」として、説得で平和を実現しようとします。
ただ、この作品の惜しいところなのですが、女浪人は最後の一頁になって、日清戦争への是認を表明してしまいます。平和な集団を実現しようという試みは、外部に共通の敵を設定することでしか実現できないというジレンマ。社会学者サムナーが指摘し、さらに後世、鳥山明『ドラゴンボール』のクリリンも指摘した問題を、女浪人はついに克服できませんでした。
私としては『女浪人』や、『ドラゴンボール』の論理をさらに超越する小説(媒体はまんがでもアニメでもゲームでもいいのですが)が、創造されるべきだと思うのです。
つまり、共通の敵に対しての集団の団結という形での平和ではなく、共通の敵など持たない、敵対しあう集団「間」の平和。そういう「物語」を、私は求めています。