一八八二(明治一五)年刊行。外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎による翻訳および創作詩集。
北原白秋の詩をいくら読んでもさっぱり感動できないので、もしかしたら私の感性は古すぎるのではないかと思い、徹底的にさかのぼってみることにしました。直リンクはしませんが、ウィキソースで読みやすいのがあったので。
私には『新体詩抄』は新体すぎたようです。明治の文章は読み慣れているので、何を言っているのか意味はつかめますが、まったく感動がこみあげてきません。
物語内容はけっこう痛切なんですよ。ですが、物語表現の紋切り型っぷりが、戦争の悲惨さをまったく伝えていないのです。シニフィアンがシニフィエに全然追いついていないというか。
テニスン氏とやらの元の詩も悪いのかも知れません。
※
死地に乘り入る六百騎 將は掛れの令下す
士卒たる身の身を以て 譯を糾すは分ならず
答をなすも分ならず これ命これに從ひて
死ぬるの外はあらざらん 死地に乘り入る六百騎
※
後の九軍神や神風特攻隊と同じ思想です。秋山好古が「騎兵とはこれじゃ」と、ガラス窓を素手で割ってみせたという挿話を連想します。
「無名戦士」だの「英霊」なんていないのです。死んだ600人近い兵士にもそれぞれ名前があり、命があったのです。自分が確実な死を命ぜられる600人の1人になるかも知れないという想像力をまったく持たない詩人(?)だけが、安全な場所でこういうくだらない詩を書きます。
無責任な戦争賛美詩の伝統は明治前期からあったとわかっただけが収穫でした。だからといって、北原白秋の戦争責任が軽くなるというものでもありませんが。