核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「ら」の字が気に入らない

 古語の「われら」は一人称単数の意味で使われていたり(『宇治拾遺物語』)、二人称で使われた例すらあるとのことで、ちょっと自信がなくなっています。

 しかし、冒頭で「われは思ふ」とある以上、以下の「邪宗門秘曲」にある「われら」が一人称単数や、ましてや二人称ではないのは自明でしょう。

 

   ※

 いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、
百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも
惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、
善主麿、今日を祈に身も霊も薫りこがるる。

   ※

 

 一人称複数だとすると、この「われら」とは北原白秋とあと誰なのでしょうか。

 読者?少なくとも私は、北原白秋に紅の夢を見せるために死にたくはありません。

 なんか、自分がさんざん高級料亭で飲み食いしたくせに、支払いの段になると会社の接待費と称して請求書を出させる業界人を連想します。そんな景気のいい業界が現在あるもんか知りませんが。

 冒頭で切支丹でうすの魔法を夢見た「われ」は北原白秋でいいのでしょう。しかし、その代償「百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも惜しからじ」を支払う場になるとなんで「われら」になるのか。「死すとも惜しからじ」の対象は、決して「われ」ではなく「ら」の方のようです。

 北原の詩すべてが、こうした構造(他者の犠牲を前提に快楽を味わう)のわけではありません。しかし、北原が最後に書いた『大東亜戦争 少国民詩集』は、まぎれもなく他者に「自爆」「体あたり」を命じ、他者の命など「惜しからじ」とひきかえに、「われ」が快楽をむさぼる構造をなしています。