たとえば、以下のような詩が、北原白秋の代表作とされています。「赤い鳥小鳥」。
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赤い鳥 小鳥
なぜなぜ赤い
赤い実を食べた
白い鳥 小鳥
なぜなぜ白い
白い実を食べた
青い鳥 小鳥
なぜなぜ青い
青い実を食べた
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・・・・・・非科学的な上に、どうしようもなく単調な、イマジネイションを欠いた詩です。こんなのに作曲する方も大変です。黒でも茶色でも無限に書けそうです。子供の「なぜ?」という問いに、ウソを教えて好奇心や向学心を封じる詩です。
韻を踏んでいる?同じ内容を繰り返すだけの文章は韻とは言いません。
『邪宗門』などの初期紙片、あ変換ミスした詩編と、『大東亜戦争 少国民詩集』『新頌』などの晩年紙片を読んだだけで、北原白秋詩の指向を語るのは早計かも知れません。しかし、それらに共通点を見いだすのは可能です。公正世界仮説、それもものすごく原始的で幼稚で利己的な公正世界仮説であると。
たとえば「邪宗門秘曲」の冒頭、「われは思ふ、末世の邪宗」。これ自体は別に悪くありません。北原白秋という個人が、邪教だか統一教会だかに憧れようが勝手にしろです。問題は終わり近くの、「われらに賜へ(略)死すとも惜しからじ」です。つけが回ってくると急にわれ「ら」になり、「ら」がいくら死すとも惜しくない、それと引き換えに「われ」=北原白秋が紅の夢に酔えるなら、という論理(?)です。それのどこが詩なんでしょうか。
北原の戦争詩についてはもう一々あげる気にもなりませんが、それらは、
「私はこんなに(他者を)犠牲にしてきた。だからそれと引き換えに、私(だけ)は勝利を得られるに違いない」
という、とてつもなく利己的で非論理的な文法に貫かれています。白襷隊と称して部下をわざと犬死にさせた乃木希典を連想させます。
困ったことに、上記のような文法は、ある種の日本人に訴えかける魔力があるのです。たとえば宮沢賢治(彼は詩人です)や、進んで神風特攻隊に志願するような、自己犠牲精神にあふれた純粋な人にとっては。
自己犠牲精神にあふれる宮沢賢治タイプが、他者犠牲精神にあふれる北原白秋タイプに利用される時、惨劇は起こります。幸い私はそのどちらのタイプでもないので、惨劇を分析し、繰り返さないようにすることができそうです。いや、繰り返してはなりません。