核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

死や犠牲や戦争の美化に抗して

 もう少しだけ、北原白秋よりの話を続けます。伊藤野枝論に軟着陸するために。

 「邪宗門秘曲」から絢爛たる南蛮趣味の語彙をとり去り、構造のみを三行でまとめると、以下になります。

 

 「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。

  いざさらばわれらに賜え、血の磔背にし死すとも惜しからじ、

  願ふは極秘、かの奇しき紅の夢」

 

 なるほど、北原白秋は美の探求のためならはりつけで死んでも惜しくないとまで考えていたのか・・・・・・というのは早合点です。死んだら紅の夢にふけることもできないのですから。

 「われ」と「われら」の差異にご注目ください。「われ」が美に耽るためには、われ以外の「われら」(つまり、実質的には三人称複数形)がいくら死すとも惜しからじ、と北原は詠っているのです。まさに邪宗

 月世界のエレキの夢なんて、この詩発表直前でも東京の映画館で上映してたのですが。北原が見たいのはむしろ血の犠牲のほうなのでしょう。

 最晩年の『大東亜戦争 少国民詩集』では、そうした構造が露骨にあらわれています。無事生還した兵隊さんには目もくれず、自爆、体あたり、差し違え戦法を礼賛し、勝手に自爆したら戦略的にまずいはずの偵察機まで、詩の中で自爆させています。

 「また北原への個人攻撃か」と思われるのは嫌なので文学一般に敷衍しますが、死や犠牲や戦争が美しいかのように文章化することは実に容易なのです。明治前期の『新体詩抄』でさえ、騎兵600が無茶な命令に従って自滅的突撃を行うさまを描いたテニスンの詩を翻訳しています。日本人もそうなれと言わんばかりに。

 それに対して、生や平和や民主主義の美しさを文章化することは困難です。明治期にだって、「厭戦闘」や「戦争を呪ふ」といった反戦詩はありますが、反戦派の私から見てさえ、美しいとは言いかねます。宮崎湖処子や山口孤剣の筆力が劣っているわけではなく、戦争に抗する語彙・文章の蓄積が少なすぎ、洗練されていないのです。

 そういう風潮を打破するために、文学研究者は何ができるか。戦争文学を批判すべきか、平和文学を擁護すべきか。とりあえず私は交互にそれをやるつもりです。伊藤野枝の反差別小説を終えたら、次は北原の戦争詩を扱うつもりです。