核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

愚行権は容認される、悪行権は容認されない

 法学や現代哲学の最先端がどうなのかは知りませんが、私なりの意見を述べてみます。自分自身を危険にさらすかも知れない、愚行権は認められる。他人を危険にさらすかも知れない、悪行権(これは今考えた造語です)は認められないと。

 何が善で何が悪かは、しばしば人によって基準が異なります。社会常識が善ではないと認めた行為であっても、当人が善だと信じ、なおかつ他人を危険にさらさない行為であれば、容認すべき(推奨すべきという意味ではありません)だと思うのです。

 RPGでよくある、村人が「あの山には恐ろしいドラゴンがおる。行くのはやめなされ」と言う状況。しかしこちらにドラゴンを倒すべき理由があり、倒せるだけの実力があるならば、その山に行くのが正しい選択かもしれません。しかし実力や正当性が十分ではなく、寝たドラゴンを起こして村人にまで被害を及ぼす恐れがあるなら、行かないのが正しい選択でしょう。

 じゃあ、北原白秋の「さしちがへ戦法」詩はどうかというと、それは愚行であるのみならず、敵味方の兵士を現実の危険にさらす「悪行」であるために容認できません。北原の場合、自分がゼロ戦に乗って特攻する気などまったくないのですから、なおさらです。批判されるべきです。