「道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。」
「歩行者は右側通行」というルールが戦後にGHQの手でできたのを知らない後世の読者には、誤解している人もいるのではないでしょうか。少なくとも過去の私は誤解してました。道徳とは、みんなが右側通行している中で一人だけ左側を通行するような、「世間」に抗う、危険に満ちた生き方のことであると。
芥川の意図はそうではなく、前半にもあるように、「みんなが道徳を守れというから自分もしかたなく守る」といった程度の道徳観であるようです。つまんねーやつだなあ。しょせん芥川龍之介は二次創作者にすぎないと私は思います。
平穏な日常生活の中でなら、芥川のようななまぬるい道徳観でもいいでしょう。しかし、差別や戦争といった非日常の状況下では、多数派がいる安全な側(たとえば差別に加担する側)を離れ、大勢の流れを変えるべきだと思うのです。高速道路を左側通行、もしくは逆走さえする蛮勇をもって。もちろん遊び半分ではなく、差別や戦争の奔流を止める場合に限ってのことですが。
芥川の「羅生門」はつまらない作品だと、私は断定します。
「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
みんなが道徳を破っているなら破ってもいい、という程度の思想を得々と語る下人も、その程度の思想を「勇気」と呼ぶ語り手もくだらない存在です。そんなもんを教科書に載せてこどもに押し付けて、何を教育しようというのでしょうか。
芥川が旧時代扱いして冷笑した福地桜痴の作品、少なくとも『仙居の夢』と『女浪人』は、命を賭けて悪しき時代に抗い、世間と渡り合う人物を描いています。文体が古めなので今すぐ教科書にというわけにはいきませんが、『女浪人』からちょっとだけ引用します。女浪人が尊王攘夷派の暗殺を止める場面です。
「人の心は銘々区々、余と心が違ふゆゑ活して置けぬと殺したら此世の中は乱ちき騒ぎ、酷い世界に成らうぞへ」
セカイ系だとか言わないでください。『羅生門』よりも前に書かれた作品ではありますが、福地は明らかに、芥川の下人のような生き方の「行方」を見据えています。下人当人は生き延びられても、それは「酷い世界」をもたらすことになると。
道徳は便宜の異名なんかではありませんし、天国に行くためのポイントかせぎでもありません。。「この世の中」「世界」を良くするための危険に満ちた営為、それを私は道徳と呼びます。