弦斎メモの中に、「将碁道楽」とあったのを見て、将棋好きの私はちょっと気になりました。腕前もさることながら、弦斎は将棋という「道楽」をどうとらえていたのか。
弦斎が将棋について書いた他の文章はないものかと検索したところ、意外なのがヒットしました。平和主義に転じた晩年の随筆、「感興録」より。
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今日の人間は幼年時代から平和ならざる習慣や教育を受けて居ります。学校へ出れば試験競争と云つて、何でも他人の上に出よう出ようと努力しなければなりません。遊び事をすれば野球でも庭球でも囲碁でも将棋でも、他人に勝たう勝たうと努めなければなりません。
(略。そうした競争型社会では)
今日の人間社会では、一人が幸福を受くれば、他の一人は必ずその反対に不幸に陥ります。或は一人の幸福の為めに数人若くは数十人の幸福を犠牲にしなければなりません。
斯ういふ時代に何うして真の平和が起りませう。
村井弦斎「感興録(二)」(『婦人世界』一九二〇(大正九)年九月)
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将棋否定論でした。この件については、私は弦斎と意見を異にします。むしろ、敵対する二国の兵士が将棋を指しているうちに打ち解ける、小川未明の童話「野ばら」のほうに共感します。
人間の攻撃性は禁止抑圧すべきものか、それとも安全な形で発散すべきものか。
プラトンとアリストテレス以来の古い対立点ですが、私は無害な形で発散したほうが、精神衛生上いいのではないか、平和のためなのではないかと考えています。