核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

発表資料 その3

 3 三国同盟の成立過程と、小林秀雄の果たした役割
 
 別紙資料2 「英雄を語る」 『文学界』 1940(昭和15)年11月1日
ヒットラーを「英雄」と評価し争って礼賛する小林秀雄林房雄石川達三
 
 引用8 山川菊栄 「ナチスと婦人」(『読売新聞』 1935(昭和10)年12月5日)
 近ごろある女学校で、上級の生徒に各自の崇拝する大政治家の名を挙げさせたら、ヒトラームッソリーニが断然優勢だったとのこと。(略)こんな政治家が婦人の求める英雄であっていいのだろうか。
 
 引用9 戸坂潤 『世界の一環としての日本』 白楊社 1937(昭和12)年
 同盟通信社ベルリン一九三六年十一月二十七日発のニュースは、ナチ・ドイツにおける芸術批評の禁止を報道している。一般民衆は芸術の鑑賞だけが許されて、批評は許されないこととなり、芸術批評は専ら宣伝省の特許を得た、芸術記者のフルネーム署名入りのものに限るというのだそうである。(略)この一種の芸術至上主義が、芸術の社会民衆による批評を無視することによって、如何に芸術上のヴァンダリズムにいたり得るものかということを、示してくれたのも彼である。(「ナチス芸術統制に寄せて」(1936))
 今日の文学者的な文化上の自由主義ほど、日本ファッショ化の過程にとって有益なデマゴーグはないのである。(略)私は小林秀雄氏のようなタイプの文壇人にこの危険を著しく感じるものだ。(「日本主義の文学化」(1937))
 
 引用10 高橋正則 「日独伊三国同盟と新聞報道」(『法学論集』 1973(昭和48)年12月)
 以上において三国同盟締結を推進した当時(引用者注 1940年9月前後)の朝日新聞の論説・記事をみてきた。(略)朝日新聞の独逸一辺倒―英・米切り捨ての姿勢が、当時の国民世論の形成を大きくリードしたことは、客観的事実として、指摘できると思われる
 別紙資料3 『東京朝日新聞』 1939(昭和14)年10月7日
ヒットラーの私心のなさを見る自論を「穿ちすぎだらうか」と自画自賛する小林秀雄
 別紙資料4 『朝日新聞』 1940(昭和15)年9月4日
(ドイツにおける言論弾圧の実態の記事。無署名)
 
 ※1940(昭和15)年9月4日の段階までは、最も親ドイツ的な朝日新聞にさえも、ナチスを批判する言論の自由が存在した。
 
 引用11  半藤一利 『昭和史 1926―1945』 平凡社平凡社ライブラリー671) 2009(平成21)年
 (1940年9月の)十四日午前中の大本営政府連絡会議、十六日の臨時閣議を経て、十九日の御前会議で、まことにあっという間に日独伊三国同盟が国策として決定してしまいました。拙速といえば拙速ですが、これほどまやかしな国策決定がなぜ猛スピードででき上がったのか。それはとりもなおさす、十二日に態度を保留していた海軍が、十三日には一転して「現下の局面を打開するには他に名案がない」として「政府に一任する」と明言したからです。(「第九章 なぜ海軍は三国同盟をイエスと言ったか」)
 
 引用12  森茂樹「松岡外交における対米および対英政策」(『日本史研究』 1997(平成9)年9月)
 昭和天皇も最後は日米国交調整のためという理由に説き伏せられて同盟を承認した。彼は、世代的に見ても英米との関係を重視する元老西園寺公望や海軍長老よりも、より親軍的・「革新的」な近衛や木戸幸一内府に近く、英米への対抗意識も意外に強いものがあったようである。従って、彼の同盟受容は必ずしも「渋々」なされたわけではないと思われる。
 
 引用13  安田浩 『天皇の政治史―睦仁・嘉仁裕仁の時代』 青木書店 1998(平成10)年
 9月16日、閣議は三国軍事同盟案を決定、19日の御前会議での承認、上奏、裁可で国家意思は確定した。(略)天皇がしばしば親政を実施しながら「立憲君主」として輔弼にしたがって行動していると観念し、臣下が輔弼によって天皇をしたがわせようとしながら、天皇の命によって行動していると観念する行動様式が一般化すれば、“君臣もたれあいの構造”というべき壮大な無責任の体系が形成されることになる。
 
 ※諸説を総合すると、9月12日までの段階では、外務大臣松岡洋右を除けば、昭和天皇裕仁・近衛内閣・陸海軍上層部・朝日新聞・読売新聞のいずれも、三国同盟に積極的に賛成というわけではなかった。では、9月13日~27日の「一転」をもたらしたものは何だったのか。
 
 引用14 三宅正樹 『日独伊三国同盟の研究』 南窓社 1975(昭和50)年
 親英反ソの路線を声高らかに提唱している『わが闘争』について、日本の指導者がこれをまともに読み、深く理解していたとは到底思われない。(略。もし読んでいれば)日独伊ソ四国協定の構想が現実化し得るなどという夢想が生じるはずはないのである。
 
 ※当時最大の朝日新聞の、日本を代表する批評家による『我が闘争』賛美が、政局に何の影響をあたえなかったとは考えられない。