3 三国同盟の成立過程と、小林秀雄の果たした役割
別紙資料2 「英雄を語る」 『文学界』 1940(昭和15)年11月1日
引用9 戸坂潤 『世界の一環としての日本』 白楊社 1937(昭和12)年
同盟通信社ベルリン一九三六年十一月二十七日発のニュースは、ナチ・ドイツにおける芸術批評の禁止を報道している。一般民衆は芸術の鑑賞だけが許されて、批評は許されないこととなり、芸術批評は専ら宣伝省の特許を得た、芸術記者のフルネーム署名入りのものに限るというのだそうである。(略)この一種の芸術至上主義が、芸術の社会民衆による批評を無視することによって、如何に芸術上のヴァンダリズムにいたり得るものかということを、示してくれたのも彼である。(「ナチス芸術統制に寄せて」(1936))
今日の文学者的な文化上の自由主義ほど、日本ファッショ化の過程にとって有益なデマゴーグはないのである。(略)私は小林秀雄氏のようなタイプの文壇人にこの危険を著しく感じるものだ。(「日本主義の文学化」(1937))
別紙資料3 『東京朝日新聞』 1939(昭和14)年10月7日
別紙資料4 『朝日新聞』 1940(昭和15)年9月4日
(ドイツにおける言論弾圧の実態の記事。無署名)
(1940年9月の)十四日午前中の大本営政府連絡会議、十六日の臨時閣議を経て、十九日の御前会議で、まことにあっという間に日独伊三国同盟が国策として決定してしまいました。拙速といえば拙速ですが、これほどまやかしな国策決定がなぜ猛スピードででき上がったのか。それはとりもなおさす、十二日に態度を保留していた海軍が、十三日には一転して「現下の局面を打開するには他に名案がない」として「政府に一任する」と明言したからです。(「第九章 なぜ海軍は三国同盟をイエスと言ったか」)
引用12 森茂樹「松岡外交における対米および対英政策」(『日本史研究』 1997(平成9)年9月)
昭和天皇も最後は日米国交調整のためという理由に説き伏せられて同盟を承認した。彼は、世代的に見ても英米との関係を重視する元老西園寺公望や海軍長老よりも、より親軍的・「革新的」な近衛や木戸幸一内府に近く、英米への対抗意識も意外に強いものがあったようである。従って、彼の同盟受容は必ずしも「渋々」なされたわけではないと思われる。
9月16日、閣議は三国軍事同盟案を決定、19日の御前会議での承認、上奏、裁可で国家意思は確定した。(略)天皇がしばしば親政を実施しながら「立憲君主」として輔弼にしたがって行動していると観念し、臣下が輔弼によって天皇をしたがわせようとしながら、天皇の命によって行動していると観念する行動様式が一般化すれば、“君臣もたれあいの構造”というべき壮大な無責任の体系が形成されることになる。
※諸説を総合すると、9月12日までの段階では、外務大臣の松岡洋右を除けば、昭和天皇裕仁・近衛内閣・陸海軍上層部・朝日新聞・読売新聞のいずれも、三国同盟に積極的に賛成というわけではなかった。では、9月13日~27日の「一転」をもたらしたものは何だったのか。
引用14 三宅正樹 『日独伊三国同盟の研究』 南窓社 1975(昭和50)年
親英反ソの路線を声高らかに提唱している『わが闘争』について、日本の指導者がこれをまともに読み、深く理解していたとは到底思われない。(略。もし読んでいれば)日独伊ソ四国協定の構想が現実化し得るなどという夢想が生じるはずはないのである。