核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

福地桜痴の反戦論(1877)

 『明治文学全集 11 福地桜痴集』(筑摩書房 1866)、354ページ収録の無題社説。柳田泉氏によって、「欧州文明ノ一本質」という仮題がつけられています。傍線省略、カタカナはひらがなに、かっこ内は引用者によります。
 
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 欧州諸国の政略に於ける、概ね皆陰険を蔵し、詐術を弄し、(略)文明世界と云ふに似ざるは、吾曹(ごそう。桜痴が作った一人称)已に之を慨嘆せり。試に思へ、(略)九十年間の治乱に於て一の義戦と名づくべき者ありや否や。或は口実を愛国に托し、或は名義を国光に仮りて、強て之が辞を作ると雖も、其実を見れば君相の功を好み事を喜ぶや、一身の名利を博せんが為にする私戦たるに外ならずして、夫の暗黒世界とも云ふべき群雄割拠の戦国時代と何の異なる所あらんや。(以下、ヨーロッパの戦争の悲惨な歴史が延々と語られますが省略)
 『東京日日新聞』 1877(明治10)年10月10日
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 ・・・西洋文明なんて言ってるけど、「義戦」(正義の戦争)なんてものが一度でもあったか。愛国だの国光(国益)だのときれいごとを並べてるが、やってることは国王や大臣の「私戦」(野心を満たすための戦争)。日本の戦国時代と大差ないじゃないか。
 先月まで桜痴は社長みずから西南戦争の従軍記者をやってまして、戦地では書けなかった不満をここで爆発させたという感じです。彼の戦争報道は犬養毅(話せばわかるの人。当事は慶応義塾の学生アルバイトでした)のそれと並んで、近代日本ジャーナリズムの先駆けとされていますが、そこでは薩賊(西郷隆盛軍)の略奪ぶりは描かれても、明治政府軍に対する批判はできませんでした。
 植木枝盛矢野龍渓に匹敵する反戦論ではありますが、私戦ではない義戦(正義の戦争)までは否定しきれていないところが、前二者と共通する欠点です。彼が非暴力主義に到達するには、さらに三十年近い年月を必要としたのです。