核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

青山佩弦斎という人物について

 村井弦斎とは無関係なのですが、「弦斎」で検索するとこの人物名がむやみと出てきます。以下、コトバンクより。

 

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 青山佩弦斎(読み)あおやまはいげんさい
 日本大百科全書(ニッポニカ) 「青山佩弦斎」の意味・わかりやすい解説
 青山佩弦斎
 あおやまはいげんさい
(1807―1871)

江戸後期の歴史学者水戸藩士。名は延光(のぶみつ)、字(あざな)は伯卿(はくけい)、通称は量太郎。佩弦斎また晩翠(ばんすい)と号した。拙斎(せっさい)の長子として水戸城下に生まれ、弓術に優れる。1830年天保1)『大日本史』編修局彰考館の総裁代役、1840年水戸の藩校弘道館(こうどうかん)の教授となる。1843年弘道館教授頭取(総教)となり、350石を給せられる。藩主を追われた徳川斉昭(とくがわなりあき)の雪冤(せつえん)に関係して一時罷免されたが、許されてのちは、1846年(弘化3)国史編修頭取として『大日本史』の本紀・列伝の出版に尽力。1852年(嘉永5)ふたたび弘道館教授頭取となったが、維新後明治政府に出仕、東京で没した。墓は水戸藩士の常磐原(ときわばら)共有墓地(水戸市末広町)にある。主著に『国史紀事本末』(正続)、『赤穂(あこう)四十七士伝』『佩弦斎集』などがある。

[瀬谷義彦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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 時代的にはかぶらないし、村井弦斎が青山佩弦斎を慕って号をつけた、なんてこともなさそうですが。一応そういう人物がいたということは記憶しておきます。