核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

2021-11-01から1ヶ月間の記事一覧

『愛々草紙』の由来

小野梓『愛々草紙』第一駒より。 ※ 野蛮の民に愛なしとハ最と理ある事の葉にて侍りける。国を愛し親を愛し子を愛し夫を愛し妻を愛する事柄ハ皆な是れ文明の事ぞかし。茲に綴り出す一篇の物語ハ名を愛々と称へて (『明治文学全集 12』三九五~三九六頁) ※…

小野梓は確かにユニークだけど

『愛々草紙』で論文は書けない、という結論に達しました。 光るところはあるんですよ。道中で盗賊甲と乙に襲われ、仕込み杖で返り討ちにした後、 「彼輩も自業自得とハ申しながら誠に不愍で御坐りますなア」(三九九頁) と述懐するところなど、単なる勧善懲…

小野梓「たとえば、きみが東京から大阪へ行くとする」

小野梓「余ガ政事上ノ主義」(明治一五年)より。立憲改進党の方針についてのたとえ話。カタカナはひらがなに変えてお送りします。 ※ 宛も東京を発して大坂に赴くが如し。大坂に至るは是れ極所即ち吾人の目的なり。(略)一は飛揚函根を越へ富士山に跨り近江…

あらすじ!愛々草紙

第一駒 「ワハハ 守節仮面!もはや のがれることはできんぞ」 「ワーッ」 第二駒 守節仮面のむすこの木王仮面が登場する。 「ワハハ 木王仮面!もはや のがれることはできんぞ」 「グエーッ」 第三駒 (場面がかわって、木王仮面の母親の萩野仮面が出てる……)

『明治文学全集 12 大井憲太郎 植木枝盛 馬場辰猪 小野梓集』(筑摩書房 一九七三)

借りてきました小野梓。「救民論」の漢文版も載ってました。上海で書いたそうです。「宇内」(世界)の「一大合衆政府」建設を訴えています。 それ以上に気になるのは、小野梓が晩年(といっても三十三歳)に書いた未完の政治小説『愛々草紙』。「未来の未来…

川西政明『小説の終焉』(岩波新書 二〇〇四) その2

「『浮雲』から持ちこしてきた小説の主題は、一九七〇年代には書き終えられてしまったといえよう」(「はじめに」ⅲ頁)と断言する書。 論拠が示されているわけではなく、自分は「日本で小説を一番多く読んでいる一人だと思う」との、読書量への自負がすべて…

柄谷行人『憲法の無意識』その2 六十年周期は百二十年周期だった!?

間違いを素直に認めるのは、認めないよりはいいことですが、限度もあります。 ※ 第二に、(引用者注 『戦前の思考』を)読み返して感じたのは、私が九〇年代初期に考えていた状況認識には欠陥があるということです。たとえば、私はそのころ「歴史の反復」に…

柄谷行人『憲法の無意識』(岩波新書 二〇一六)

日本国憲法九条は日本人の無意識に根ざしているものだから変わることはない、という論調には賛同できませんでしたが、勉強になった箇所もありました。 ※ 明治の段階で、西洋の平和論はかなり普及していました。それは自由民権運動の進展とともに導入されたの…

小野梓もノーマークだった

柄谷行人の『憲法の無意識』を読んでいたら、明治の平和主義者として、小野梓(おのあずさ)というなじみのない名前が出てきました。 前に一度ぐらいは『明治文学全集』でお目にかかっているはずですが、うかつにも深入りせずにいました。矢野龍渓らと同じ立…

柄谷行人「文学という妖怪」(『文学界』二〇二〇(令和二)年三月号)

「近代文学の終り」(二〇〇四)は、「私の記憶する限り、これは、別に近代文学の終りを主張するために書いたものではなかった」(二三二頁)という柄谷の言に驚かされます。 「実は、私は自分の書いた論文のことをよく覚えていませんでした」(二三二頁) …

「万歳ヒットラーユーゲント」、聞いてみた。

北原白秋の歌詞だけで音楽の良し悪しを判断するのもどうかと思い、聞いてみました。サビの「万歳ヒットラー~」「万歳ナーチースー」が外にもれないよう、音量を絞って。 萬歳ヒットラー・ユーゲント - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 芸も…

論文、軌道修正

「文学の終り」とか「小説の終焉」といったあやふやな言説とはきっぱり縁を切って、福地桜痴の『女浪人』論に専念したほうがいいような気がしてきました。 今日一日かけて考えをまとめてみます。

文学の終焉の終焉

『近代文学の終り』とか『小説の終焉』という本が出たのは二〇〇四年のことでした。 今回書く論文では、それらに対して、「文学は終っていない!」と声高に訴えるつもりだったのですが。 近年(二〇二〇年前後)の文献を読むと、どうも文学の終りといった論…

蹄鉄理論、極右と極左の類似

当ブログは、おとといは大江健三郎の中国賛美を批判し、昨日は北原白秋の戦争詩を批判しました。おまえは右翼か左翼かどっちなんだ、と問われた時のために応えておきます。どちらでもなく中道であると。そして、お互いに激しく罵り合う極右と極左というのは…

北原白秋「ハワイ大海戦」(一九四二)

「幻冬舎新書 日本の軍歌」というサイト ハワイ大海戦 (sakura.ne.jp) で全文読めますので、今回はコピペはしません。『読売新聞』一九四二年一月一日版と『大東亜戦争少国民歌集』(一九四三)版のいずれも、 「我あり、望む大東亜」 (後者では「我あり、…

日本人民共和国を熱望する大江健三郎

大江健三郎の『人民日報』一九六〇年六月二六日の発言。 「遠くない将来、必ずこんな日が参ってくる―日本人民共和国の旗が、中国人民共和国の旗といっしょに翻る日が!このような日はもう遠くない。このような未来はもう明日と同じように近づいてきた。これ…

大橋裕美「榎本虎彦の劇作法―『経島娘生贄』における「趣向」と「作為」」(『演劇学論集』 二〇〇七)

近代日本文学に少しばかり通じている以外は、私は何のとりえもない人間でして。 数多い苦手なジャンルの一つに、歌舞伎があります。テレビで観たことさえありません。で、ちょうど榎本虎彦作、中村芝翫主演の、『女浪人』の二年前に同じ歌舞伎座で上演された…

M・ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』(風行社 二〇〇八(原著一九七七) 予定)

ずいぶん古い本ではありますが、いまだに読んでいませんでした。 論敵である「正戦論」を知るために読んでおきたいところです。AMAZONでは高めなので、たぶん国会図書館で……。

北原白秋「脱退ぶし」

戦争に甘美さを感じる人がいるなどと、まじめな平和主義者には信じがたいことかも知れません。明治大正や昭和初期の文献を読みなれた者には自明のことなのですが。 一例として、北原白秋が日本の国際連盟脱退(一九三三)時に詠んだ、「脱退ぶし」の一節を。…

絶対平和主義の奇手・妙手

「戦は経験のない者には甘美だが、体験した者はそれが迫ると心底から恐怖を覚える」というピンダロスの詩文が、松元雅和『平和主義とは何か』の巻頭に引用されています。後半(戦争の恐怖)はしばしば語られるところですが、前半(戦争の甘美さ)についての…

坂井米夫『ヴァガボンド・襄』(板垣書店 一九四八) その2 「裕仁さん」より

ヴァガボンド襄こと坂井米夫が、原爆投下前に書いた降伏勧告文「裕仁さん」は三四四~三五四の十頁に渡り、日本語反戦文学の最高峰と呼びたくなる力作です。内包された読者に届かなかったことが残念でなりません。 アメリカの威を借りて戦争責任を弾劾告発す…

坂井米夫『ヴァガボンド・襄』(板垣書店 一九四八) その1

この資料は私が発見したわけではなく、坪井秀人先生の『二十世紀日本語詩を思い出す』(思潮社 二〇二〇)の三四五~三五七頁より学ばせていただいたことをお断りしておきます。 在米日本人、坂井米夫が戦後まもなくに刊行した半自伝的小説。太平洋戦争下に…

歌舞伎『女浪人』中の土方歳三

近藤勇とくれば土方歳三。歌舞伎『女浪人』では該当する役を、二代目市川猿之助が演じ、述懐しています。 ※ 今度の歌舞伎座では辻形由蔵(つじかたよしざう)といふ役ですが、あの伏見町の戦争の場で、薩州方と大いに戦つてみんなを斬つてしまふといふ勇まし…

福地桜痴、近藤勇と立ち合う

『燃えよ剣』映画化に便乗して、新選組ネタを一つ。 ※ 或時近藤勇が福地に向ひ『君は洋学出身の人に似合ず剣道の嗜みが有ると〇〇〇が咄して居た、一本願はうぢや無いか』と云ふから居士は一向に剣道の心得が無いと弁解したが近藤は中々承知を仕無い、『他の…

榎本虎彦『桜痴居士と市川団十郎』(一九〇三)

『女浪人』の脚色者が原作者を語った書。『女浪人』への言及は見つかりませんでしたが、前から探していた逸話の記事が見つかりました。 主人公不要論と弦斎論。語り手は福地桜痴です。 ※ 劇(しばゐ)には主人公が不必用 今の文学者は二言目には此劇には主人…

鬱にも負けず

軽い鬱状態だったり脚がつったりしましたが、なんとか『女浪人』論を七割がた書き上げました。

中村芝翫(なかむらしかん)

一九一一(明治四四)年六月の歌舞伎『女浪人』で主演したのは、五代目中村芝翫(1866~1940 1911年11月に五代目中村歌右衛門を襲名)でした。 その中村芝翫の八代目が、NHKドラマ『晴天を衝け』に岩﨑弥太郎役で出演しているそうです。最近テ…

スポンサーが強力すぎると

歌舞伎『女浪人』には、原作には出てこない西園寺公望(さいおんじきんもち)をもじった名前の公卿が出てきます。上演当時の前総理大臣であり、二か月後にまた総理になる大物政治家です。で、 ※ 歌舞伎座の一番目で羽左衛門が西園寺侯に扮するにつき侯の平生…

ハッチオン『アダプテーションの理論』(晃洋書房 二〇一二)

ブラッドベリの発言をコピーしそこねたのは痛恨のミスでした。 コピーした部分からこれはという箇所を。 ※ フォルマリズムの批評家、新批評家、構造主義者、ポスト構造主義者らが一様に半世紀にわたって芸術家の意図と解釈との関連性を批判的に放棄してきた…

柄谷行人『柄谷行人の現在 近代文学の終り』(インスクリプト 二〇〇五)

かつては柄谷氏を尊敬していたこともあったんだけど(『探究3』のころは)、この本には賛同できませんでした。 ※ 写真が出現したとき、絵画は写真ができないこと、絵画にしかできないことをやろうとした。それと同様のことを、近代小説は映画が出てきたとき…