核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

柄谷行人『憲法の無意識』その2 六十年周期は百二十年周期だった!?

 間違いを素直に認めるのは、認めないよりはいいことですが、限度もあります。

 

   ※

 第二に、(引用者注 『戦前の思考』を)読み返して感じたのは、私が九〇年代初期に考えていた状況認識には欠陥があるということです。たとえば、私はそのころ「歴史の反復」について考えていました。そして、資本主義における歴史的文脈は約六〇年の周期で反復される、という仮説をたてていました。だから、九〇年代以降は一九三〇年代を反復することになるだろう、と予測したのです。しかし、一九九五年に、私はこの考えを放棄しました。ただ、「歴史の反復」という考え自体を放棄したのではなく、ただその周期を六〇年からその倍の一二〇年に変更すればよいと考えたのです。

 (一九五頁)

    ※

 

 何の根拠もなしに、「倍の一二〇年に変更すればよい」って言われてもなあ。

 『戦前の思考』では、さんざん一九九〇年代は「戦前」だとか、人を脅すようなことを書いてたじゃないですか。それを真に受けてた当時の私もまぬけですが。

 いっそのこと、「歴史の反復」という考え自体放棄しましょうよ。

 もうこうなると、柄谷の言うことを一々信用する人もいなくなるんじゃないかと思います。「悪い、実は二四〇年周期だった」と言い出しかねませんから。

 私の関心は、もはやまったき「他者」となった柄谷行人から、まだ見ぬ小野梓へ飛びつつあります。明治文学全集のもくじを見ると、「愛々草紙」という小説らしきタイトルを発見。私は歴史の反復なんてのはオカルトだと思っていますが、むしろだからこそ、歴史に学ぶ必要は大ありだと考えています。