私にとっては思い出深い一九八〇年代文学、特に筒井康隆の評価が低いとか、細かい部分で意見が合わないところもあります。
「架空の国家の捏造に走ったベテラン作家」という、悪意を感じさせる小見出しに始まり、筒井の八〇年代の活動を「実験小説でござい」「前衛でござい」で片付けています(一〇〇~一〇四ページ)。あの頃(実際に読んだのは九〇年代だったかもですが)に文学への志をかきたてられた世代としては忸怩たるものがあります。
が、それはそれ。かつて読んだ小説をあれこれ語るのは楽しいものですし、まだ読んでいない小説を案内してくれるのもありがたいものです。
結論は、著者が「純文学のDNA」と呼ぶ、敗者・弱者が厳しい現実の前に立ちすくむ傾向の、克服にあるようです(二五七~二五九ページ)。問題解決能力のある人物を描き、厳しい現実のその先を示す文学こそ必要であると。この点は賛同します。
同書の感想からは少し離れますが、「文学は〈敵〉にどう対処してきたか?」という問題設定ができそうな気がしてきました。〈敵〉とは例えば明治政府だったり家父長制だったり、資本家だったり軍国主義だったり、ネオコンだったり大震災だったりといろいろあるわけですが、そうした〈敵〉に文学はどう対処してきたか。純文学はひたすら(敵)から逃避して立ちすくみ、娯楽作品は〈敵〉を刀や銃や光線でやっつける快感をえがいてきたわけですが、そのどちらでもない、〈敵〉と対話しつつ平和共存する文学は意外と少ないのではないかと。