核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

渡部直己『不敬文学論序説』(太田出版 一九九九)その1

 『日本近代文学と〈差別〉』の著者による、天皇をめぐる文学への考察。

 帯には、

 

 「〈天皇小説〉こそは最後の文学である」

 

 とあります。今扱っている伊藤野枝の作品には天皇は登場しませんが、いずれ『戦争の止め方』に再挑戦する時には避けて通れないテーマであり、再読することにしました。

 対象を具体的に描くことを目的としてきた近代文学が、天皇や皇族に対してだけは、一部を除いて、腰のひけた「黙説法」に陥ってしまいがちなこと。その数少ない例外として木下尚江が挙げられています。

 ただ、異論もあります。筒井康隆氏への評価についてです。

 「同氏に、近代の天皇・皇室をまざまざと小説化した作例のあることを寡聞にして知らない」(二六一頁より)と断じ、その姿勢を「卑劣」「通俗」と渡部氏はきめつけるのですが。筒井康隆氏はたびたび小説中に近代の天皇を登場させています。

 「ヒノマル酒場」「おもての行列なんじゃいな」といった短編もですが、超大作『虚航船団』(一九八四(昭和五九)年)では、第一部には消しゴムの巨大な天皇が登場し、第二部ではイイヅナ(イタチ属の一種)のアラマヒトという、存命中の昭和天皇を露骨にモデルにした天皇が登場します。筒井氏と渡部氏の論争は『虚航船団』をめぐって始まったと私は記憶しています。その渡部氏が『虚航船団』をお忘れとは情けないことです。

 「消しゴムやイタチの天皇じゃダメなんだ。生身の人間としての天皇を描かなければ」という異議はあるかも知れませんが、少なくとも筒井氏の創作態度が、天皇の問題を避けているから「卑劣」であるとは、私は思いません。