この著者名を見て、二〇一八年のセクシャルハラスメント騒動を思い起こす方も多いかも知れません。しかし、一九九四年のこの著書を読む限り、文学と差別への問題意識は先鋭で、入手した価値はあったと判断しました。
議論したい点はいくつもありますが、まずは伊藤野枝「火つけ彦七」への言及を探すのが先です。ありました。
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二号でおわった『水平』誌も(『解放』誌上より転載した伊藤野枝『火つけ彦七』、宇野浩二『因縁事』を改作した『呪はれた女の運命』をふくめ)、十篇ほどの韻文、散文作品を収めているが、(略)これらはしかし、総じて既成の表象技術を稚拙に踏襲する素人の域を出ておらず
(八一頁)
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一山いくらの扱いでした。なお、青空文庫の後記によれば「火つけ彦七」は
「改造 第三巻第八号」1921(大正10)年7月15日
が初出とのことですが、『改造』→『解放』→『水平』と転載されていったのでしょうか。国会図書館に行ったら調べてきます。
渡部著のあとがきによれば、「文学」は差別との戦いに役立たなかった、むしろそんな「文学」は撲滅すべきものであるとの主張です。もし「火つけ彦七」がそうした作品にすぎないとすれば、それで作品論を書くこともまた徒労となるのですが、そこは渡部氏とまっこうから闘いたいところです。私は「火つけ彦七」を、差別と反撃の構造を暴露し、その両方を否定する、パワーを持った作品(しつこく「作品」と呼び、「テクスト」と呼ばないのは、野枝の作為もそこにあったという方に賭けているからです)と認めています。
もちろん、善意で書いたつもりが逆に差別を促進する結果になってしまった、不幸な小説もあります。ほかならぬ村井弦斎の「川崎大尉」がそれで、今回近代デジタルコレクションで読み返したのですが、要約すれば、
〈被差別者出身でもがんばれば立派な帝国軍人になれますよ〉
という趣旨の、どう弁明のしようもない、渡部氏なら「邪悪」とさえ呼んだであろう小説でした。ほかに私の関心領域では、福地桜痴「侠客春雨傘」「車善七」、賀川豊彦『死線を越えて』などが批判の対象となっています。
なまはんかな善意や同情で差別問題にふれるべきではないと、再認識させられました。私の覚悟はなまはんかではないので、ふれます。全力で。