核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ジュディス・バトラー『非暴力の力』(青土社 二〇二二) 第四章を中心に読み返す

 同書「第四章 フロイトにおける政治哲学ー戦争、破壊、躁病、批判的能力」を重点的に読み返しましたが、やはり理解不能でした。

 最近、「賛同しがたい」とか「同意できない」ばっかり書いているようですが、残念ながらこの本もそうなりそうです。

 晩年フロイトアインシュタインあて書簡とか、『快原理の彼岸』とかを引用して、死や戦争に向かう衝動に抗する力として、「躁病」的な心の働きを挙げているようなのですが・・・「躁病」?どうも戦争を止める力としてはぴんときません。

 躁病的な集団行動が歴史を動かした例となると、ええじゃないかとか義和団(修行すれば銃弾に当たっても死なないとかいう教え)とか、もっと古いとこども十字軍とか、どうもそれ自体が暴力的な例しか思いつきません。少なくとも戦争を止めた例はないようです。

 一応、終章そのほかも読み返してはみます。発売と同時に買った本でもあり、できる限り役立てたいので。

ジュディス・バトラー『非暴力の力』(青土社 二〇二二)再読

 最初から最後まで頁をめくりはしたのですが、腑に落ちるというわけにはいきませんでした。「これぞ非暴力の力!」というものは見えてきませんでした。

 特に第四章「フロイトにおける政治哲学」は、かなり大幅に末期フロイトに依拠して論を進めていて、フロイト不信がぬぐえない私には賛同しがたいものでした。

 一応、せっかく発売と同時に買った本ではあるし、もう何度か熟読してはみます。

【若手研究者支援セミナー「専門書出版への橋渡し―博士論文のその先へⅢ」】

 ある研究者の方のツイッターで知りました。

 歳は食ってても単著がなく、学界的には無名の若手にすぎない私も、興味を引かれました。

 

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 【若手研究者支援セミナー「専門書出版への橋渡し―博士論文のその先へⅢ」】10/26(水)18:15/北大W308教室・オンライン/4人の話題提供(編集者・出版経験者)+情報提供(研究推進室)

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 オンラインでの申し込みは10月23日までだそうです。

ナポレオン4世、5世、6世、7世・・・・・・?

 わけあって、「ボナパルティズム」を検索したら。

 ナポレオン3世(大統領から皇帝になったルイ・ボナパルト)は有名だし、若くして亡くなったナポレオン2世がいたのも知っていましたが。

 ウィキペディアの「ボナパルティズム」の項を見ると、「ナポレオン公」の名を受け継ぐナポレオン4世、5世、6世、7世(なぜか2人)の肖像がぞろぞろ出て来ます。

 7世さんはネクタイ姿で、「ジャン・クリストフ・ナポレオンボナパルト」氏。ロマン・ロラン作の架空作曲家にあやかったのでしょうか。

 いまさらフランスを帝政に戻そうなんて人もいないでしょうし、実権は何もないとは思いますが。

 そういえばマルクスの「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」は通読してないのでした。ルイがルンペン・プロレタリアートをソーセージで買収したとかそのあたりまでしか。

 

渡辺暁『はじめてでもよくわかる!図解チェス入門』(朝日新聞出版 二〇一六)

 前回の感想文とは無関係です。

 今日は実に久しぶりにチェスをやりました。相手も私も駒の動かし方しか知らない初心者ですが、

 

 「なるべく駒を相殺(交換)し、盤上を単純にする」

 「クイーンだけは最後まで温存する」

 

 という、素人戦術でどうにか勝ちました。次回はもう少し高度な勝ち方をしてみたいと思い、図書館で渡辺著を借りてきたわけです。

 「フィアンケット」だの「イタリアン定跡」だのといった、目新しい用語が心地よく頭に入ってきます。娯楽に飢えていた小学生時代だったら、そのまま記憶に刻み込まれたはずなのですが、この歳になると覚えるはしから忘れていきまして。まあ、気分転換にはなりました。

 チェスの動かし方については、むかしポーの『メルツェルズチェスプレイヤー』を扱った時に書いた気がします(あとで確認)。戦術についても、気がむいたら私に理解できる範囲で書くかも知れません。

ある思い出と、国民国家論をめぐる感想

 かれこれ20年前。うっすらとした記憶によると、大学院のゼミの場で、

 

 「国民国家論の立場からは、平和主義も批判の対象なんですよ」

 

 というような批判を受けたことがあります(そのままの言い回しではありません)。

 当時、木下尚江の日露非戦論に入れ込んでいた私ですが、ろくに反論もできませんでした。西川長夫『国民国家論の射程』を読んだ上で、反論を試みようと思います。決して立命館大学閥への地方国立大卒のひがみとかではなく、学説への反論です。

 西川著収録の「国民国家論から見た「戦後」」の「3 人はいかにして国家に回収されるか」では、「人は○○によって国家に回収されました」とさまざまな例をあげた後、

 

 「だが反戦平和運動のなかにも国家への回路が隠されている」(二七五頁)

 

 と、平和への希求が同時に祖国愛でもあると述べています。

 この調子で、「人は戦争責任の追及を通してさえ国家に回収される」「われわれはあらゆる国家装置とイデオロギー装置を通して国家に回収されてゆく」(二七五~二七六頁)と続きます。

 こうなると、すべての国民国家が解体でもしない限りは(日本だけが解体しても、他の国民国家に分割吸収されるだけでしょう)、何もできないことになりそうです。

 私は無政府主義者ではなく、「あらゆる国民国家の解体」なんていつになるかわからない理想の実現を待つほど余裕もないので、とりあえず諸国家群という枠組みでの世界平和、をめざすことにしています。先にあげた木下尚江も、日露戦後に刊行された小説「新曙光」(のち『良人の自白』続編として単行本化)内で、

 

 「諸君、今両国政府が急ぎつゝある日露戦争に対して吾人は全然反対せねばならぬ、特に日本人の一人として絶対的に反対の意を明白にせねばならぬ」

 

 と書いています(傍線引用者)。非戦論者もしょせん国民国家の一員か、と思う方もいるかも知れませんが、「大日本帝国の臣民の一人」とか言わなかったところに尚江の意図を感じます。時の政権に反対するのと、国家そのものに反対するのは別なのです。

 私が扱ってきた作家、作品群の中にも、日本国家からの逃走を描いたやつは確かにあります(ぬすんだ戦艦で海上独立国家とか、光線列車で火星移住とか)。しかし、それらの作品世界が日本という国民国家よりも平和か?居心地がいいか?とは答えづらいです。どうもユートピアを志向する共同体というのは、共同体に属さない者に対して冷酷になる傾向があるようです。国家に限らず。

 結局、国民国家論は代案を欠いているために、私は賛同できないという、結論になりました。西川著を読む前と同じですが、仕方がありません。ぼろ家でも、雨露をしのげるぶんだけないよりはまし。「雨もりがする家だから、家ごとこわしてしまおう」というのは暴論です。

 ・・・・・・これだけだと、私を国家主義者と決めつける方が出そうなので、弁明を。

 国民国家に限らず、原始集落から現代に至る人間の共同体全般がもつ弊害といったものとその解決策を、私は考えています。共同体内部での敵対が禁じられた分、その敵意・攻撃性・差別意識はまとめて外側に排出されるのではないかといったことを。で、敵意や攻撃性の存在を否定するのではなく、無害化する方策(私はムフをそういう方向で読んでいます)が見つからないかと考えているわけです。西川著の人間観はもっと楽観的らしく、今の私の問題意識とはかみ合わなかったわけです。