小野梓「余ガ政事上ノ主義」(明治一五年)より。立憲改進党の方針についてのたとえ話。カタカナはひらがなに変えてお送りします。
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宛も東京を発して大坂に赴くが如し。大坂に至るは是れ極所即ち吾人の目的なり。(略)一は飛揚函根を越へ富士山に跨り近江の湖水を見下し直入径行頓然大坂の中央に至らんと冀望するを得べし。又一つは当日午後の新橋発の汽車に駕し軋々声中に横浜に至り(略)又飛脚船に移乗し(略。神戸で降りて汽車に乗り、大坂梅田の停車場で降りて)又此より人力車を雇い(以下略。大坂のどこへでも行ける)
『明治文学全集 12』三七八頁より
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もちろん明治一五年に飛行機はないので、汽車と蒸気船と人力車で行ったほうがいい、わが立憲改進党の主義もそうした着実主義である、という趣旨ですが。
『ドラえもん』第一話でセワシくんが言ってたりくつをふと連想しました。
未来を変えてしまうことを心配するのび太に、東京から大阪へ行くのにいろんな道すじがあるように、途中が変わっても未来は変わらないと説明する箇所があるのです。
しかしなあ、ドラえもんは横で他人事みたいな顔してますけど、君らがやってることは立派な「親殺しのパラドックス」ですよ。ジャイ子とのび太の子という、セワシにとっての先祖は消滅するわけですから……。