龍渓という人が、「福沢の高弟」や「穏健な立憲改進党」という枠におさまらない、激しさを持っていたことを示す一例。明治一〇年、西南戦争の時の話です。
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かゝる時に於て、当時まだニ十歳代である先生の胸奥にひそむ革命的志士の熱血が湧き出ずにはゐない。
先生は潜かに思つた。「万一にも西郷がゆく〱官軍を破り、遂に東上するやうなことがあつては、それこそ天下麻の如く乱れるであらう。然るときは、この機会に於て、まづ東京を自治の自由都市とし、宛もドイツのハンブルヒのやうな自治体たらしめなくてはならぬ。さうした上で、更に檄を全国に飛ばして国人を奮起せしめ、我政府をして国会を開くまでに進展せしめなければならぬ」と。
小栗又一編『龍渓矢野文雄君伝』一九三〇 一二五ページ
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…師である福沢諭吉に反対されたり(ま、当然ですね)、西郷軍が思いのほか苦戦したりして、この陰謀はお流れになったそうです。
明治天皇をどうするつもりだったのかとか、色々とつっこみどころの多い計画です。後年は宮内省につとめたり、『新社会』で立憲帝国による社会主義を主張したりした矢野龍渓ですが、この時点では共和主義者だったのかもしれません。もしかしたら。