核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

柄谷行人「文学という妖怪」(『文学界』二〇二〇(令和二)年三月号)

 「近代文学の終り」(二〇〇四)は、「私の記憶する限り、これは、別に近代文学の終りを主張するために書いたものではなかった」(二三二頁)という柄谷の言に驚かされます。

 

 「実は、私は自分の書いた論文のことをよく覚えていませんでした」(二三二頁)

 

 「これを書いたのは、二〇〇四年頃、「早稲田文学」を編集していた市川真人(まこと)さんに文学に関して寄稿するよう熱心に頼まれたからです。(略)別にそれを積極的に主張しようとしたわけではなかった」(二三二~二三三頁)

 

 「実際のところ、「近代文学」は終わっているどころではない。その逆です。それが隅々まで浸透した状態になったのです」(二三三頁)

 

 ……柄谷行人近代文学の終り』(インスクリプト 二〇〇五)に収録された同名の論文では、確かに彼は「近代文学は終った」としか読めない文章を書いていたのですが。「記憶にない」「人に勧められてやった」「真意は逆だった」って、ダメな政治家の言い訳と同レベルです。この「文学という妖怪」を最後まで読んでも、過去の発言への真摯な謝罪や、なぜ考えを変えたのかについての説明はでてきません。

 あるのは、次のようなマルクス気取りの結論だけです。

 

 「私も、文学は必ず何らかのかたちで回帰してくる、と思います。「全世界に妖怪が徘徊している、文学という妖怪が」というべき事態が来る、と」(二四〇頁)

 

 なんか、読んでて恥ずかしくなってきました。柄谷の文学終焉論をまともに受け取ったこっちがばかだったようです。