核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

腑に落ちる文章ふたつと、ためになるまんがひとつー国民国家批判への批判ー

 どうもフロイトなんか読んでると、「腑に落ちない」「賛同できない」が口癖になってしまいそうです。気むずかしいやつだと思われないように、私が心から腑に落ち、賛同できる文章を紹介します。

 小谷野敦「近代国家の代案 ヴィジョンなき「カルスタ」」(『中庸、ときどきラディカル 新近代主義者宣言』筑摩書房 二〇〇二)。二〇年前から人文学界で流行していた、国民国家批判への批判です。

 

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 最近の左翼系知識人の間では、「国民国家」が諸悪の根源のように言われている。国民国家といっても何のことか分からない人もいるかもしれないので説明すると、江戸時代以前の人々は、なに藩の家来だとか、なに村の百姓だとかいう意識はあっても、「日本国」の国民だという意識はあまりなかった。それを近代になって政府が「国民」を作り上げたというわけだ。確かに国民国家は、君が代を歌わないといけないとか各種のシバリを持っているのだが、今の日本に徴兵制はないし、じゃあ江戸時代の貧農に生まれて教育を受けられなくてもよかったのかお前は、と私などは思うのだが、どうも彼らは、国民国家がいけないなら代わりに何を持ってくるつもりなのか、ヴィジョンを持っていないようなのである。

 (一二二頁)

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 もう一つは柳瀬善治「世俗的批評の〈神学的次元〉ー「9・11」・「複数の戦後」ー」(『日本近代文学』二〇〇二年五月)。こちらも二〇年前の文章ですが、国民国家批判への批判を含みます。

 

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 経済的な要因によって引き起こされる「国民国家の解体」のあとには、「異教徒」である「武装した市民」同士のグローバルな〈内戦〉が勃発することなど、余りにも自明なのだが、理論の政治性と国家批判を標榜してきた人々がそうしたことに気を配らなかったのは不可思議である。

 (二四七~二四八頁)

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 お二方のご意見は腑に落ち、賛同できます。まったく、ほんとに国民国家がなくなり、日本国が消滅してしまったら、もと日本国民は困るのです。

 ひろゆき氏のような国外に脱出できる大金持ちだけは困らないかも知れませんが。周囲の独裁国家やら、多国籍企業やらイスラム原理主義者やらといった、国民国家以前の諸勢力が旧日本領に押し寄せてきて、江戸時代どころか戦国時代に逆戻りするのは眼に見えています。守ってもらおうにも国家の警察はなく、けがをしても国民保険はないのです。旧日本国民は諸勢力の占領下で、国民どころか「非国民」として扱われるでしょう。ナチスドイツ支配下ユダヤ人がそうであったように。ロシア支配下ウクライナ人がそうであるように。

 そんなことは国民国家批判者たちも百も承知なのでしょう。国民国家批判をやっている学者たちのほとんどは、国民国家をほんとうになくすつもりなどなく、なくなるとも思っていないのです。腐ったつり橋の上で、それと知らずにふざけているようなもので、国民国家は安泰だと信じ込んでいるから、なんの代案も出さずに、十年一日どころか二〇年一日のごとく批判できるのでしょう。

 『ドラえもん』のひみつ道具に、「ありがたみわかり機」がありました。「ごはん」と言ってボタンを押すと一時的にごはんが食べられなくなり、ごはんのありがたみを実感できる機械です。

 国民国家批判のみなさまも、国民国家のありがたみを実感するべきではないでしょうか。ロシア占領下のウクライナイスラム国に行けとは申しません。一日だけ免許証や国民健康保険証の類を一切持たず、その他日本という国民国家が提供するサービスを自発的に拒否する日を体験してみる。消費税も国民国家に入るものだから買い物もできず、そもそも日本国が発行する金銭も持てない。批判には建設的で実現可能な代案が必要だと痛感できるはずです。