核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

西川長夫『国民国家論の射程 あるいは〈国民〉という怪物について』(柏書房 一九九八) その2

 日本での、国民国家論(あるいは国民国家批判)の代表的な著書です。

 その最後に収録された、「国民国家論から見た「戦後」」に、「人は(略)平和運動を通してさえ、国家に回収される」「人は戦争責任の追及を通してさえ国家に回収される」との、国民国家批判の側から見れば平和主義さえ国民国家への回路であるとの論があることは、前にも引用しました。それ以外のもろもろの活動も、すべて国民国家に回収されるとの論も。

 では、国民国家批判の側に立つ者はどうすべきなのか。西川著の結論部分から引用します。

 

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 国民国家は民族や国民、文明や文化といった神話の上に、自然なもの絶対的なものとして成り立っており、その神話が崩れ、国家の人工性と虚構性が暴かれ、暴露されてしまえば、成立の基盤を失うことになります。国民が祖国のために死ぬことを止めれば、もはや国民国家は成立しない。王様が裸だと言ってしまえば王の権威は失墜します。半ば冗談ですが、国民国家お化け説が成り立つと思います。お化けの正体が見破られたとき、お化けはもはやお化けではありません。

 (二八一頁)

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 成り立ちません。西川自身も次の頁で、国民国家の相対化は「きわめて困難な作業」とも述べていますが、無理な話です。

 たとえば貨幣(お金)の価値というのは国民国家が保証するものであり、人工的かつ虚構的な価値ですが、「お金の価値なんてのは幻想だ。全部捨ててしまえ」と言われて従う人がいるでしょうか?そして貨幣は国民国家の機能の一部に過ぎず、学校・病院・警察・水道・福祉といった諸々のサービス(束縛と感じることもありますが)を全部拒絶して生き続けることなど、まず不可能なのです。西川著は国民国家憎しのあまり、私でさえ見えることが見えなくなっているようです。

 それでも国民国家をなくした後の、善後策が示されていればまだしもなのですが、西川は「代案」を示すことをかたくなに拒絶します。

 

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 文学者が話しはじめると国語を話す。社会科学者が語りはじめると国家語を話す。社会科学者が代案を示すとつねに国家にたどりつく。

 (二八三頁。略)

 まことらしい予言や代案には用心した方がよい。いま私に言えることはそんなことでしかありません。

 (二八四頁)

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 私も国語(日本語)でしか話せず書けない文学研究者ですが、そんな落ちこぼれは国民国家なき新しい世界では生きていけなくてもいいということでしょうか。フランス留学の経験を持つという(まさか国費留学ではないでしょうが)、国際人西川なら別かも知れませんが。

 私は国民国家批判側でも、逆の国家主義者でもないつもりですが、日本という国家の枠を保ったままでの改善案を考えていきたいとは思っています。現在大幅に練り直し中の『戦争の止め方』もその一環です。