核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

西川長夫「代案(オルタナティヴ)について」(『戦争の世紀を越えて』一三八~一四三頁) その1

 一日遅れになってしまいすみません。

 西川長夫は、「これまで、意図的に代案を出すことを拒否してきたのですが、それには主として三つの理由があります」(上掲書一三八頁)と述べています。以下に、その三つの理由を、少し長くなりますが引用します。

 

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 一つは、すでに述べたように、代案というのは二大政党制が理想とされるような代議制の、したがって国民国家の枠内での選択を示す、いわば体制内イデオロギーであるということ。第二は、歴史の考え方にかかわってきますが、歴史にはつねに意外性があって、とりわけ現在のような五百年来の大転換期にあっては、未来の予測は困難である。ウォーラーステインはそのことを、プリゴジンの理論を借りてバイファーケーションという用語で説明しています。そういう時代にあっては、一歩一歩、視野を切り開いて、その度ごとに道を選らんで進むしかないのであって、もし一挙に代案を出せる人がいたら、多分それはいんちきだと思います。第三は、ほぼ第二と同じことですが真の代案を出すためには、その人が感性においても思想においても、根底から変わらなければならないだろう。

 (一三八~一三九頁)

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 さらに「第三」の補足として、西川は「根底的な非国民たち」の例を以下のように挙げます。

 

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 幸徳秋水をはじめ、大逆事件で処刑された人々は代案をもっていました。大杉栄伊藤野枝も素晴らしい代案をもっていた。しかしそうした人たちの代案は、それ以後の歴史をつうじて、現代にいたるまで、国民国家体制のなかで抑圧され続けていて、それを、感じ取る、あるいは再発見するわれわれの能力は非常に弱くなっているのではないか、オルタナティヴの問題を考えるときに、そのことは、ぜひ考えていただきたい。

 (一四〇頁)

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 西川長夫が代案を出すことを拒否する理由はまだ続きますが、長くなるので次回以降に。私の反論も次回以降に。