ようやく西川長夫著『戦争の世紀を越えて グローバル化時代の国家・歴史・民族』を入手し、読んだので、少しずつ抜粋と読後感を書いていこうと思います。
私にとっての一番の関心事は、彼が戦争というものをどう考えていたかなのですが、納得のいくものではありませんでした。たとえば以下の引用のように。
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戦争に反対を唱え、戦争責任を追及する人たちが、どうして反国家主義者にならず、またどうして国民国家批判を始めないのか、私には不思議でなりません。十九世紀と二十世紀は国民国家の時代ですが、それは同時に戦争の時代でした。戦争はそれまでにもいくつもあったけれど、国民国家の時代に戦争は制度化され国家間の必然となったのです。
(同書一四六頁)
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戦争に反対し戦争責任を追及する私がなぜ国民国家批判に与しないのか。お答えします。戦争は十九世紀と二十世紀になって初めて制度化されたものでもないし、国民国家以前の戦争は「それまでにもいくつもあった」なんて言葉で片付けられるものでもないからです。
君主や教祖がほしいままに侵略戦争を行っていた時代に比べれば、十九世紀以降の国民国家はまだしも「進歩」していると私は見ます(「まだしも」ではありますが)。
本来ならここで学術的な資料を出して、西川論に反駁すべきなのですが、手元にないので、とりあえずウィキペディアの「戦争一覧」をリンクしておきます。
国民国家の時代もそれ以前も、戦争の時代であることにかわりはありません。「戦争はそれまでにもいくつもあった」とありますが、いくつもなんて生やさしいレベルではありません。
西川著には先の引用の少し後で、以下のように結論しています。
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もし本当に戦争に反対し、戦争の責任をとるつもりなら、戦争を生み出す装置を究明・解体し、また自ら戦争の遂行者であることを止める以外はないはずです。
(同書一四六~一四七頁)
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「戦争を生み出す装置を究明」すべきだというのには同意します。その研究を進めてもいます(解体に着手するところには至っていませんが)。しかし、国民国家が戦争を生み出す装置だというのには同意できません(上の戦争一覧をご覧ください。国民国家成立のはるか以前から戦争はあったのです)。
以上の理由から、私は西川らの国民国家批判には賛同できないし、それに加わるつもりもありません。戦争廃絶をめざす者にとっては有害無益な論であるとさえ考えます。
「火事が起きるのは火があるからだ。火の使用を禁止しよう」
「洪水が起きるのは水があるからだ。地球から水をなくそう」
といった議論を、まじめに相手にする必要があるでしょうか?