たいてい、国民国家以前にも、国民国家以外の組織にもあります。
西川長夫『国民国家論の射程 あるいは〈国民〉という怪物について』の冒頭には、国民国家の諸要素をまとめた、わかりやすい一覧表がふたつついています。
それらのうち多くは、
(交通〔コミュニケーション〕網、貨幣ー度量衡の統一、地方自治体、警察、病院、均質化平準化された明るく清潔な空間など)
であり、そうでないものは
・国民国家の罪のように表にはあるが、実際には国民国家以前から存在したもの
(租税、植民地、軍隊、新しい宗教の創出など)
です。租税も軍隊もない古代文明など、聞いたこともありません。国民国家批判がいかに不当であるかを示す、わかりやすい表です。
もし国民国家がすべて消滅すれば、前者(交通網(インターネット含む)、貨幣、地方自治体、警察、病院など)つまり国民国家以後由来の善いものはすべて消滅し、一方国民国家以前から存在した悪いもの(税金、植民地支配、軍隊、新しい宗教、それらの帰結としての戦争やテロ)はそのまま存続し続ける、中世のように暗く不潔な時代に逆戻りするだけでしょう。
谷崎潤一郎『陰翳礼賛』(一九三三)のような、暗く不潔な空間への郷愁、といった嗜好があり、ある種の文学作品がそれに応えていることは私も認めます。しかしそれは明るく清潔な空間が実現できた、まさに昭和日本という近代国民国家の住人だから許される贅沢です。谷崎が実際に建てた邸宅は、陰翳礼賛に書かれた美学からはほど遠いものだったそうです。
そういえばヘミングウェイには、「清潔な明るい場所」(『勝者に報酬はない』一九三三収録・・・・・・おお、『陰翳礼賛』と同じ年だ)という短編がありました。人生の一切に絶望し、ナダ(無)しか感じられなくなった主人公が、清潔な明るいカフェで過ごす時間にだけ安らぎを感じ取れるという小説です。その末尾にもありましたが、清潔と明るさに安らぎを覚える人のほうが多数派でしょう。第一、ある場所を清潔で明るく保つ方が、掃除や照明のコストがかかるのです。掃除は学校教育の、照明の普及は国民国家のたまものです。その点に関しては、国民国家に文句を言う筋合いはないようです。