核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

自文化中心主義にも、文化相対主義にも陥らないために

 一九六〇年代の大江健三郎毛沢東礼賛、抗日戦礼賛、そして核開発礼賛という、当時の価値観に忠実であったに過ぎず、それを二〇二三年という後世の価値観から頭ごなしに批判するのは自文化中心主義に陥っているのではないか、という批判もあるかも知れません。ないかも知れませんが、一応、私の立場は自文化中心主義ではないという、再反論を書こうと思います。取り越し苦労に終われば幸いです。

 ポストモダニズムを掲げる方々は、西洋至上主義や自文化中心主義を疑うあまり、人類普遍の価値観などはないという、一種のニヒリズムに陥りがちです。確かにヘーゲルマルクスの、ヨーロッパこそ進歩の到達点、アジアやアフリカは永久に遅れたままといわんばかりの歴史観は、それこそ滑稽な自文化中心主義であり、否定されるべきです。

 とはいえ、人類の普遍的な悪は存在します。飢餓・虐殺・洗脳・全面核戦争といったものも広い意味では文化の産物かも知れませんが、それらが善い文化であるという人はめったにいないでしょう……あ、毛沢東はそれらを推奨してたのか。いることはいるわけですが、そういう人は人類の普遍的な価値観に照らして「悪」と名指していいかと思います。毛沢東をほめたたえていた時期の大江も。文化大革命毛沢東による二千万人以上の虐殺)なんてのは、「文化」の名に値しません。文化相対主義にも限度があるべきです。