核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

 1500万人~5500万人を死なせた独裁者を賛美する大江健三郎

 まずは軽い序の口、大江著のプロローグから。

 

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 最初の海外旅行は一九六〇年夏の中国への旅で、北京のホテルで樺美智子さんの死についてきき、上海で毛沢東と会った。この中国の最もすぐれた二十世紀人は、悲しみにみちたおだやかな眼で、ひとりの日本の女子大生の悲惨な死についてかたった。いまとなってみれば英雄樺美智子という毛主席の言葉よりもむしろ、あの哲学者にして実践家の老人の眼の悲しみにみちた光のほうが心に深くのこっている。

 (大江健三郎『ヨーロッパの声・僕自身の声』(一九六二(昭和三七)年 七頁)

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 毛沢東は「中国の最もすぐれた二十世紀人」「哲学者にして実践家」だと大江健三郎は語ります。「一九六〇年夏の中国」をたたえる大江の文章はまだ続きます。

 「厭らしい」(と大江が語る)香港から、中国領内に入った時の感動について。

 

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 思えば僕のはじめての旅は幸福な旅だったのだ。中国であれほど僕を激しくひきつけたものはそれはなにだったのだろう?社会主義ということ、革命ということ、それよりももっと具体的に、毛沢東思想の現実化ということだったろうか?僕は高校生のころから毛沢東の著作がすきだった。したがって上海のいかにも中国風の主席の仮邸でこのすばらしい東洋人に会えたときには深い印象をうけた。その夜は霧が小雨にかわり、なおも霧のようにうずまいている上海の旧イギリス租界のもの凄いばかり豪華なホテルにいて、中国の南西の辺境の少数民族がつくるという茅台酒(マオタイチュー)をのみながら朝まで興奮して坐っていた。

 (同書一〇頁)

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 その後も、大江が中国の農民や人民公社をたたえる文章は続きます。

 さ、て、そろそろ「一九六〇年夏の中国」「毛沢東」「人民公社」の実像にうつりましょうか。接待旅行で「もの凄いばかり豪華なホテル」に泊めてもらって茅台酒飲んでた大江には、決して見えなかった光景です。

 ウィキペディアの、

 中華人民共和国大飢饉 - Wikipedia

 の項を参照していただければ簡単なのですが、読むに耐えない実態の描写も多いので、要点を引用します。

 

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 中華人民共和国大飢饉(ちゅうかじんみんきょうわこくだいききん、英語The Great Chinese Famine)または3年大飢饉(さんねんだいききん、中国語三年大饥荒/繁体字中国語三年大饑荒/拼音Sānnián dà jīhuāng)とは、1959年から1961年までの中華人民共和国の歴史において広範にわたり発生した、大規模な飢饉である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。一部の学者は、1958年または1962年もこの期間に含めている[8][10]。この大飢饉は、人類史上最大級の人為的災害の1つであり、飢餓による推定死亡者数は数千万(1,500万〜5,500万以上)人にも及び、史上最悪な飢饉であったと広く見なされている[3][4][5][11][12][13][14][15][16][17]。なお、この期間中の犠牲者はすべてが餓死によるものではなく、そのうちの6%から8%が拷問や処刑によるものとされる[18]

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 人類史上最大級の人為的災害、史上最悪な飢饉です。

 期間は「1959年から1961年まで」説と、1958年または1962年も含む説があるわけですが、いずれにせよ1960年夏はどストライクです。少なくとも1500万人が悪政によって餓死・拷問・処刑させられた時代のただ中です。

 はたしてその原因は。

 

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 飢饉の主要な原因は、この間に起こった旱魃などの自然災害に加えて、毛沢東政権下の1958年から1962年にかけて行われた大躍進政策人民公社による数々の政策であった[3][5][13][15][19]

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 大江が賛美してやまなかった毛沢東とその大躍進政策人民公社。それが1500万人から5500万人を死なせた元凶です。同項には農業を知らない毛沢東らのばかげた農業政策、その強制がもたらした悲惨な結果があります。くわしい記述を読みたい方は、自己責任で上記「中華人民共和国大飢饉」をクリックしてください。

 大江健三郎は別のエッセイ「北京の青年たち」で、

 

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 そしてぼくが、あらゆる責任をとりながら、中国の社会主義国家は、理想的にうまくいっている、と誓えるのも、副総理(引用者注 陳毅)から博物館の案内係、アヒル飼育人にいたるまで、この自由なユーモアをもって社会や生活にたちむかっているのを、自分で見て感動したからである。

 (『厳粛な綱渡り』(一九六五 七一~七二頁)

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  と、あらゆる責任をとると言いつつ誓ったわけですが、何の責任もとりませんでした。

 大江がやったのは、過去の紀行文を新版から削除したり、なかったことにしたぐらいです。晩年のインタビュー等では、「僕(大江)は高校生のころから毛沢東の著作がすきだった」なんて文言は出てきません。

 これ、まだほんの序の口。大江健三郎の暴走はまだまだまだ続きますが、いったん切ります。