大江健三郎は反戦・反核の人として評価されているようですが、少なくとも、紀行文『ヨーロッパの声・僕自身の声』(一九六二(昭和三七)年)の時期には、そのどちらでもありませんでした。
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僕が中国にいたとき日本ではいわゆる新安保闘争がおこなわれていた。人民日報誌には毎日、日本人の英雄的闘争というものが報道されていた。北京のホテルでベッドに寝ころんで仏訳の毛沢東を読んでいる、そこへ新聞が配達される。僕は中国の新聞の報道のなかにいわばパリ・コミューンの嵐のなかの東京といった幻影さえみるのだった。中国を去るとき、始終僕らと行動をともにしてくれた李英儒という中年の作家、かつての抗日戦大隊長の作家は、巨きい鬼のような顔に涙を流したが、それは結局、僕らが中国旅行のあいだにひとつの同志愛とでもいうべきものを育てたからだった。片方は社会主義中国の建設という戦争、片方は新安保闘争という戦争、おそらくはひとつにつながるはずのそれらの戦争のなかでの同志愛。
(同書一一頁)
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この「戦争」ってもののたとえなんじゃないの?という方もいるかも知れませんが、そうではありません。文中にもあるパリ・コミューンが引き起こしたのは、フランス国内での、政府軍とのまぎれもない戦争でした。大江は中国の抗日戦(日本への戦争)と、「ひとつにつながる」戦争として新安保闘争を見、それらの戦争のなかで中国人作家との同志愛を感じていたのです。
もちろん一九六〇年の安保闘争の実態は、戦争ではありませんでした。帰国した大江は、日本で戦争が起きていなかったことに強い失望を感じます。
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しかし日本にかえってきてみると、当然のことながら東京に戦争の印象があるわけではなかった。僕はひとつの辛い体験をしたわけだ。
(同書一一頁)
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東京に戦争の印象がなかったのは、大江にとっては「辛い体験」でした。
大江健三郎は、日本が中国等を侵略した戦争には反対でも、中国の抗日戦争、それと「ひとつにつながる」日本への戦争には大賛成なのです。そういう人を、反戦の人とは私は呼びません。
大江の核武装論については、またいずれ。