核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

好みの問題かも知れませんが

 村井弦斎の現代小説(つまり、彼の生きた明治や大正を舞台にした発明小説や家庭小説)は面白いのに、歴史小説(江戸時代以前を舞台にした小説)は、少なくとも私には、どうもあんまり響かないのか。好みの問題だけでもないと思うので(むしろ私は歴史マニアです)、ちょっと考えてみます。

 世界観の問題ではないかと思います。現代小説にあっては、新発明(新料理含む)によって未来を変えることができる、という志向が見て取れ、それが読者にわくわく感を与えてくれます。読者からのお便りが小説中で紹介されたり(『小説家』)、掲載新聞の人生相談のコーナーにヒロイン(『日の出島』の雲岳女史)が出張するといったお遊びもあり、未来はこの手で変えられる、変えていこうという見解が見られます。

 弦斎の歴史小説にも新発明の要素はあるのですが(『小弓御所』の伝書鳩利用など)、それらが登場人物にとっての未来、読者にとっての歴史を変えることはありません。森鴎外が主張した「歴史其儘(れきしそのまま)」ではありませんが、よくて史料そのまま、悪く言えば俗説そのままであって、主人公たちの発明や活躍は徒労に終わることが多いのです。

 自由意志説と決定論の違い、といったところでしょうか。弦斎の本領は前者にあると思います。「想像は時として事実の讖(しん。「予言」という意味)となる」との一文が、現代小説「大発明」の末尾にあります。小説家が想像した発明でも、そのアイディアはもしかしたら現実の発明にヒントを与えるかもしれない、現実を変えられるかも知れないという主張です。

 歴史小説では歴史の流れそのものを変えることができず(たとえば、いくら木村重成が主人公でも、大坂の陣徳川家康を討ち取らせるわけにはいかないので)、不自由を感じさせる作風になってしまったのではないでしょうか。