核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

笙野頼子『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』(二〇一七) 入手予定

 うかつにも、こういう題名の本があったことを今まで知らずにいました。

 笙野氏の講演は一回聞きに行ったことがありますが、その時は戦争の話題は出なかったもので。

 まえがきだけ無料試し読みしました。全文読んでみる価値はありそうです。

はげ熊事件

 聖書の非人道性を示す挿話。けっこうネット上で流布しているので、最小限の引用にとどめます。旧約聖書『列王記Ⅱ』2。

 

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 エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言ったので、

 彼は振り向いて、彼らをにらみ、の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。

  新改訳『聖書』五八〇頁

   ※

 

 ・・・・・・人の頭髪をからかうのは悪いことです。しかし、四十二人の子どもを殺すという報復は度が過ぎています。

 アナニヤ・サッピラ事件と同様、これも現実にこういう事件があったかが問題というより、こういう文書を『聖書』と呼ぶことに何の疑問も抱かずにいた、信者たちの道徳性が問題にされるべきでしょう。

初期キリスト教のカルトっぷりについてーアナニヤ・サッピラ事件ー

 「全財産よこせ。でないと殺す」と信者に要求し、実行さえする宗教を、一般的に何と言うでしょうか?「カルト」「反社会的集団」ですね。「邪教」という答えもあるかも知れません。

 では、『新約聖書』中の「使徒の働き」5をご覧ください。使徒(初期キリスト教の指導者)が信者に全財産を差し出すよう命じる場面です。

 

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 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。

 新改訳『聖書』「使徒の働き」5-1~5-5

   ※

 

 続いて妻サッピラも尋問に会い、「たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶え」ます。これも使徒たちの「多くのしるしと不思議なわざ」なんでしょう。

 不思議だなあ(棒読み)。この事件がではなく、その後2000年に渡るキリスト教徒の誰一人として、この事件に疑義を唱える人がいなかったことがです。

 恐怖と死で信者を縛り付け、全財産を要求する初期キリスト教に比べれば、霊感商法と洗脳と自民党癒着の旧統一教会なんてのは、まだしもマイルドになったんじゃないかと思えてきます(初期キリスト教のカルトぶりに比べればですが)。

 

石川明人『キリスト教と戦争 「愛と平和」を説きつつ戦う論理」(中公新書 二〇一六)

 キリスト教の一派であるロシア正教が、ロシアの侵略戦争を支持しているという記事があります。

 

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 英国政府は6月16日、ロシアの宗教界の重鎮であるロシア正教会のキリル総主教を制裁対象に追加した。背景にはキリル総主教が軍事侵攻を容認するだけでなく、強く支持していることがある。

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 (2022・10・5追記 上記記事は石川著ではなく、ネット上のニュース記事です。まぎらわしい引用の仕方だったので追記しておきます)

 

 キリスト教は戦争含む殺人を否定しているのでは?と考える人は、石川明人氏に言わせれば、「甘い」んだそうです。

 

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 聖書に「右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ」と書かれているから、キリスト教徒はみな、せめて建前上は絶対平和主義だろうと考えるのは、「宗教」に対しても「戦争」に対しても、認識が甘いのである。もちろんなかには、いかなる暴力をも拒否して平和主義を貫徹する人たちもいた。今でもいる。しかし、そうした彼らは、キリスト教全体のなかでは、あくまで少数派であり、珍しい連中に過ぎないというのが現実である。(六九頁)

   ※

 

 まさにその通りです。明治日本でも、キリスト教徒の大多数は日清・日露戦争に賛成していました。日露戦争に反対した内村鑑三や、このブログによく出てくる絶対平和主義の木下尚江は少数派であり、珍しい連中です。

 ごく初期の古代キリスト教は平和主義だったのかというと、そんなこともありません。この『キリスト教と戦争』の第四章「初期キリスト教は平和主義だったのか」にも、キリスト教が平和主義的では当初からなかった事例が示されています。

 結局のところ、キリスト教に過大な期待をするのはやめよう、というのが、この本を読んでの感想です。「右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ」なんてきれいごとを言いながら、自分に危険が迫ると「剣を買え」と弟子に命じるようなイエスが教祖なのですから(同書一〇一~一〇三頁にこの発言への言及がありますが、納得のいくものではありません)。キリスト教イスラム教や仏教や神道統一教会オウム真理教と同様、「ただの宗教」にすぎないと認めるのが正しいのでしょう。

 なお、私はキリスト教に対して、ことさらに批判的というわけではありません。たとえばマルクス主義などという、「ただの宗教」よりもさらに悪質な教義に比べれば、まだ比較的対話の通じる相手だとさえ思っています。

関口すみ子『漱石と戦争・植民地―満州、朝鮮、沖縄、そして芸娼妓』(東方出版 二〇一八) 入手予定

 漱石と戦争についてあれこれ調べたつもりでしたが、うかつにもこの本は読み落としていました。紀伊國屋書店のサイトより、内容紹介を。

 

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内容説明
漱石は何を悩んでいたのか?―安重根との異常接近がもたらしたものは何か。過去を照射し、現在に問いかけるまったく新しい漱石像。

目次
第1章 漱石と戦争―戦争観の変化
第2章 漱石と旅順、漱石京城漢城)―「満韓ところどころ」と「日記」のあいだ
第3章 漱石と朝鮮(1)―「王妃の殺害」
第4章 漱石と朝鮮(2)―「朝鮮の王様」、「朝鮮の統監府にいる友人」(「それから」)、他者の視線、宗助(「門」)のうめき、「小林」と「吉川夫人」(「明暗」)
第5章 漱石と沖縄―見えない琉球
第6章 漱石の感覚―「他者」の嗅ぎ分け
第7章 漱石の変化―夏目漱石幸徳秋水をどう見ていたのか
第8章 漱石と娼妓、漱石と芸者
補論 近代公娼制成立をめぐる考察

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 最低限、第1章だけでも読まなければ。

 

ぬかった

 今日は久しぶりにプレイヤーとしてTRPGに参加でき、充実した一日だったのですが。

 図書館に寄りそびれました。モルテス関係は後回しにして、先にできる仕事を片付けていくことになりそうです。