核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

デカルト「方法序説」における動物機械論

 有名な議論ではありますが、せっかくなので引用してみます。図書館への返却日も迫ったことだし。
 白水社デカルト著作集 Ⅰ』(1973)。「方法序説」第五部より。
 人間とオートマット(自動機械)の違いは、「ことばや記号を使うこと」「どんなできごとにも対応できること」の有無にある、という議論の続きです。
 
   ※
 ところで、この二つの手だてによって、また人間と動物のあいだにある違いを認識することもできるのです。というのも、人間ならばどんなにぼんやりしていて頭のわるい人でも、頭のおかしい人も例外なしに、いろいろなことばをいっしょに並べ、それで一つづきの話を組み立てて自分の考えをわからせる能力のないような人はいないのに、反対にほかの動物は、どんなに完全で生まれつきどんなにめぐまれていても、同じようなことをするものがいないのは、大いに注目にあたいするところだからです。(略)
 そしてこのことは、動物には理性が人間より少ないばかりでなく、理性がまったくないことも証拠だてます。(略)
 動物の魂と私たちの魂とはどれほど違うかがわかると、私たちの魂が体にまったく依存しない性質のものであること、したがって体とともに死ななければならないものではないということを証明する理由がはるかによく理解されます。つぎに、魂を破壊するほかの原因も見あたらないだけに、魂は不死だとそこから判断するように自然になるのです。
 (58~60ページ)
   ※
 
 古代のルクレティウスや近世のモンテーニュは、「動物はことばを話すけれども、私たちがそのことばづかいを理解しない」と考えていました(訳注より)。
 が、デカルトは、「動物にも私たちの器官に対応する器官がいくつもある以上、仲間に意思を伝えるのと同じようにうまく自分の言いたいことを私たちにもわからせることができるでしょうから」との理由で否定しています(59ページ)。
 現時点での私は、ルクレティウスモンテーニュに賛成です。意思を相手に伝えられないという点では、動物→人間も人間→動物も似たようなものでしょうから。お手とかおすわりではなく、理性的存在と呼ぶにふさわしい対話を、動物と交わせる人間などいるでしょうか。
 ただ、動物に魂があるという説が、デカルトより道徳的かどうかは何とも言えません。魂を持つ存在を殺して食べるのは、そうでない存在を食べるより悪いことかもしれませんから。私もいつかは菜食主義に転じてみたいと思いつつ、過去に何度も挫折しているのです。