なんか億単位で敵を作りそうな題ですが。
一九六五年のセミナーをもとにした『資本論を読む』序文を読んでいると、資本論はドイツ語で読まなくてはならないだの、資本論は巨大な森だのという言葉がのっけから出てきまして、哲学書というよりは、ありがたい聖典を読む態度に近いわけです。読む前から資本論は偉大な書であり、マルクスは偉い人(もちろん『資本論』の著者だからです)だと決めつけているわけです。
アルチュセール自身も、「罪のない」読み方ではないことを公言してはいます。が、近代経済学(本書では「現代経済学」の名でちょびっとだけ出てきます)からのマルクス批判をまるごと無視するのは、一九六五年という時代を考えれば罪の重すぎる読み方ではないでしょうか。レーニン、スターリン、毛沢東による虐殺と飢餓が遂行された(フランスではまだ明らかになっていなかったかも知れませんが)一九六五年という時代には。
こういう「セミナー」に参加しなくてよかったとつくづく思います。「聖書研究会に入りませんか」式の研究会がちっとも「研究」でないのと同じことです。
決めました。私は『資本論を読む』を哲学書ではなく、宗教書を読むモードで読むことにします。