核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

蒋 倩 「反戦作品が被害者文学と見なされる原因について : 壷井栄の『二十四の瞳』を中心に 」(読む予定)

 読む予定。書誌情報は以下の通り。

 『アジア言語文化研究 = 亚洲语言文化研究 = Asian language and culture research』 / 東方学術研究センター, アジア言語文化研究会 編 (2) 338-351, 2020-07

 

 「被害者文学」という語に、私と共通する問題意識を感じました。

 蒋論はまだ読んでいないので、以下は私の問題意識ですが。

 

 戦後(一九四五(昭和二〇)年以降)に発表された反戦文学の多くは、戦争で被害を受けた人の側から、戦争の悲惨さを描くものでした。それは決して間違ってはいないのですが、第一段階です。被害だけをいくら描いても、次の戦争を止めることはできません。

 では、反戦文学の第二段階とは何か。加害者文学です。戦争をあおり立てた者、戦争で利益を得ようとした者を描くこと。その上で戦争が起こるに至る過程を分析すること。そこまで書いて始めて、反戦文学は戦争を止め得るのです。

 意外にも、そうした加害者を描く反戦文学は戦後に少なく(原因はわかっています。昭和天皇の戦争責任にふれざるを得ないからです)、かえって戦前の、少数ながらも勇気ある反戦文学に見られます。

 木下尚江『火の柱』は、政治家と軍人と財界人の癒着が、日清戦争の再来を望むムードを生み出す様を描いています。社会主義的な偏見や、義憤によって風刺画的にゆがめられてはいますが、反戦文学第二段階の貴重な達成です。

 武者小路実篤『ある青年の夢』は、軍備拡張競争の暴走が、当事者たちにも戦争を止められなくしてしまう状況を描いています。

 そして村井弦斎『小松嶋』は、戦争の受益者である高級軍人一族からの、ヒロインの逃走劇を描いています。この作品の論文はただいま執筆中ですが、最終的にたどりついた結論が戦争否定、軍国主義批判なのは間違いないところです。

 戦争の加害者は誰か。加害者をどうすれば戦争を止められるのか。それらを思索していくにあたっては、これらの第二段階、戦争加害者を扱う文学とその研究が大いに貢献するものと、私は考えています。